ミニメロン作品

妖恋記
〜男たちの知らない巫女〜

壱 生け贄
 山に囲まれた湖を、闇夜に浮かぶ月の光が静かに照らしていた。
 辺りに広がる深い森の一画で、いくつかの小さな行灯の光が揺れている。それらの光は少しずつ明るさを増し、やがて数人の女たちが姿を現した。
 先頭を歩いていた若い娘が水のほとりに立ち、月の光にきらめく湖を見渡した。青い着物に包まれた彼女の背中を、他の女たちの持つ行灯の光が照らしている。ゆらめく光の中でじっと佇む彼女の背中は、小刻みに震えているかのように見えた。
 女たちの一人が彼女のもとに歩み寄り、耳許で囁いた。
「姫さま、目を閉じなさいませ。千手妖華さまは長きに渡って私たちの村を守って下さったのです。恐れる事はありません。ただ、かの華の光は私たち人間の目には眩しすぎます。姫さまがかの華の力を譲り受け、かの華と同じ光を放つその時まで、姿を見てはなりません」
 振り向いた娘の顔には、意外にも笑みが浮かんでいた。
「分かっているわ。ここまで付き添ってくれてありがとう。あなた方にこの姿で会う事ができるのは、これが最後。これからはかの華の一部として、あなた方とあなた方の村をお守りします」
 娘は女に言われたとおり目を閉じると、その顔を再び湖に向け、着物をゆっくりと脱ぎ始めた。
 脱いだ着物を女に渡すと、娘は一糸まとわぬ姿で水の中へと足を踏み入れた。歩を進めるに従い水の中へ沈んで行くほの白い裸身。
 やがて水面が彼女の胸の辺りまで達した時、湖の中央付近の底が紅色の光を放ち始めた。
 その光を見た女たちは一斉に踵を返し、足早に森の中へと消えて行く。
 裸身の娘は目を閉じたまま、光に向かって歩き続ける。
 光は次第に強く大きくなって行き、やがてその正体が水面を割った。
 激しい水飛沫の音が娘の耳に響き、強烈な紅の光が娘の瞼に突き刺さる。
 娘は顔を上げ、天に向けて大きく両手を広げた。
「千手妖華さまの求めに従い、揚羽、只今ここに参りましてございます」
 揚羽と名乗った娘の言葉に応えるかのように、光の中から細長い紐のような物が何本か伸びて来た。それらは大きく広げられた揚羽の両手に素早く絡み付き、揚羽の身体を水から引き上げた。
 水面から離れた揚羽の両足に、さらに別な紐が絡み付き、彼女の身体をさらに高く持ち上げる。
 さらに別な紐が絡み付き、蛇のように身体を這い上がる。
 ――蛇?
 生温かい紐が胸の膨らみに巻き付き揉むように蠢いた時、揚羽は思わず目を見開いた。
 紅色の光の中に広がるのは、想像を絶する光景に、揚羽は言葉を失った。
 そして自分でも気づかぬうちに、甲高い悲鳴を上げていた。

 いやぁぁぁぁっ!

 森の静寂を破る声に、鈴音は閉じかけていた目を見開いた。
「女の悲鳴。誰かが妖怪に襲われている」
 低く呟く彼女の顔を、あやけしの炎の青い光が照らす。
「助けなければ」
 鈴音は布団代わりに自分の身体に被せていた木の葉を一気に払いのけた。そして弓を握る手に力を込めつつ、今晩の寝床に選んだ枝の上に立った。
 周囲を漂うあやけしの炎のうち二つが明るさを増し、一本の光の糸で結ばれた。その糸を鈴音が握ると、炎は森の中を舞い上がった。
 光の糸に必死にぶらさがりつつ、鈴音は悲鳴の聞こえる方向を見据えていた。
 脳裏に、数年前のおぞましい出来事がよぎった。二度と繰り返されてはならない、おぞましい出来事。それが今、自分の近くで起ころうとしている。
 それを食い止めるべく、鈴音は森の上空を光と共に猛進した。

「いやぁっ、化け物! あんな化け物の所へなんか行きたくないっ! 誰か助けて、お願いっ!」
 泣き叫びながら必死にもがく揚羽の身体は、すでに何本もの紅色の触手に絡め取られ、大きく手足を広げたまま自由を奪われていた。
 彼女の目の前にとぐろを巻いているのは、毒々しい紅色の巨大な大蛇を思わせる触手の群れ。そしてその中央に巨大な目が開き、赤い瞳が泣き叫ぶ揚羽をじっと見つめている。
『さきほどまであれほど落ち着いていたというのに、我が姿を見て怖じ気づいたか』
 突然聞こえて来た声に、揚羽は耳を疑った。
 ――人の声?
 いや。正確には耳に聞こえたのではない。それは、揚羽の心に直接送り込まれた言葉だった。
『人が悲鳴を上げて泣き叫ぶ様もよいが、やはり女子には笑顔が一番じゃ。これよりそなたをたっぷりと笑わせてしんぜよう』
 揚羽には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。人外の化け物にとっても、女の笑う顔が見たいと思うものなのか。第一、自分の置かれたこの状況下で笑えと言われても、無理な話ではないか。
 その時、揚羽の身体に巻き付いている触手に無数の瘤が浮かんだ。瘤は次第に大きさを増し、長く伸びて行く。まるで触手がいくつにも枝分かれするかのようだった。枝分かれした無数の触手の先端はさらに短い枝を生やし、まるで小さな手のようになった。
 揚羽はあっという間に紅色の無数の手に囲まれていた。それらの手は一世に指をうごめかせながら、揚羽の身体に近付く。
「な、何? い、いやぁっ」
 恐怖にかられた揚羽は再び甲高い悲鳴を上げた。しかし、無数の手の指が揚羽の柔肌に触れ、その蠢きが妖しげな刺激を送り込み始めた時、揚羽の悲鳴は激しい笑い声に変わっていた。
『どうじゃ、我が指の味は』
「きゃははははははぁ、だめぇっ、くすぐったくてたまんない! こんなの、こんなの、もうやめてぇっ! きゃはははははぁっ!」
 腋の下や脇腹、背中、腰、身体中のあらゆる部分で妖しく蠢くいくつもの手。それらの指の蠢きにより揚羽の身体に送り込まれる凄まじい嵐が甲高い笑い声となって揚羽の口から迸る。
 耐え難い刺激から逃れようと、激しく蠢く身体。しかしどんなにもがこうとも、触手に絡まれた全身は、無数の指の刺激から逃れる事ができず、どこをどうくすぐられるとたまらないかを怪物に知らしめるのみ。しかしそうと分かっていても、揚羽の全身は、無数の指に操られているかのように、揚羽の意志とは関係なくもがき続ける。
『やめてほしいのか? その割にはずいぶんと嬉しそうではないか。本当はもっと続けてほしいのであろう。望みどおり我が指の蠢きを今しばらく堪能するがよい。遠慮は要らぬぞ』
 激しさを増す指の蠢きは、敏感でふくよかなお尻を撫で回し、足の指の間をくじり立てる。
「そんなのいやぁっ、もうだめぇ、もうやめてぇっ、きゃはははははぁ!」
 至る所を同時に這い回る指の動きの一つ一つに敏感に反応する身体。そして激しく迸る悲鳴と笑い声。その仕草と声の一つ一つが醜い怪物に観賞されているという屈辱も、凄まじい刺激の嵐に粉々に砕け散る。
『それでは本当にやめてほしいかどうか、確かめてみるかのぉ』
 怪物のその言葉とと共に新たに加わった刺激に、揚羽は目を見開いた。
「えっ?」
 無数の手のうちの一つが無遠慮に触れている足の付け根。そこは、女にとって最も恥ずかしい部分。口に出すのもはばかれる生理現象が日に何度か起こる場所であり、村の巫女に教え込まれた恥ずかしい悦びの源でもある部分だった。
「いっ、いやぁっ!」
 誰にも知られたくない秘密の場所を醜い化け物に晒す嫌悪感に、揚羽は叫んだ。その声が通じたのか、怪物の手がその部分から離れた。
 透明な蜜が揚羽の恥ずかしい部分からしとどに滴り糸を引き、怪物の手に絡み付いている。
「ほおれ、思った通りじゃ」
 蜜にまみれた赤い手が揚羽の目の前で指を開いたり閉じたりし、糸を引く蜜を見せつける。
『女子の悦びの証がこれほど滴っておる。我が指の蠢きがよほど気に入ったのであろう』
「そっ、そんな事ありませんっ!」
 叫びながら、揚羽は恥ずかしさに震えていた。そして、おぞましい化け物によってもたらされた耐え難い刺激に恥ずかしい反応を示してしまった自分の身体を呪った。
『やはり口よりも身体の方が正直なようじゃのぉ。それでは今度はこれで、そなたの正直な所をも存分に可愛がってしんぜよう』
 揚羽は目の前に差し出された「これ」が、自分の恥ずかしい敏感な部分へ近付いていくのを見て目を見開いた。
 次の瞬間、揚羽のその部分に今まで感じた事のない感覚が生まれた。怪物の指の先に筆の穂先のように生えた細かい毛が、揚羽の敏感なめしべを撫でさすり、また別の指に生えた細長い毛は揚羽の恥ずかしい蜜の溢れる中心と、そこよりもさらに細く恥ずかしい狭路へと侵入し、枝分かれするように生えた細かい毛が激しく蠢いている。
 それらの毛の蠢きの一つ一つによって送り込まれた妖しく耐え難い恥辱の快感は、巨大な嵐となって揚羽の身体の中で渦巻き、甲高く恥ずかしい悲鳴を上げさせる。
「い、いやぁっ、そんな所に変な悪戯しないでぇっ!」
『どうじゃ、女子の身体の外側と内側を同時にくすぐられる気分は』
「いやぁっ、もうだめぇ、もうだめぇっ、ああああぁぁっ!」
 絶え間なく送り込まれる恥ずかしい快感の嵐に、揚羽は限界だった。
 もう気が狂う。
 そう思った時、目の前を閃光が横切った。
 次の瞬間、揚羽の腕を空中に引き上げていた触手が青く燃え上がった。閃光により触手が真っ二つに切断され、その切口が燃えているのだ。不思議な事に、その炎は揚羽の腕に触れても熱さは感じられず、絡み付いていた赤い触手だけが青い炎に焼かれていく。
 一方、閃光は進行方向を変え、再び揚羽の方へ戻って来る。風を切って空中を疾走する矢の先に燃える青白い炎。それが閃光の正体だと悟った瞬間、矢は揚羽を空中に吊るしている残りの触手を全て焼き切った。
 支えを失った揚羽の身体が湖に向かって落ちていく。
 ――落ちる……。
 そう思った瞬間、それまで怪物の怪しげな指に責められ妖しく激しい刺激に甘く痺れていた足の付け根の恥ずかしい狭路から、熱い雫が流れ出した。空中で金色に輝く雫を眺めながら、自分が死ぬ直前にまた一つ、恥ずかしい姿を目の前のおぞましい怪物に見られてしまった事を恥じた。
 だがその恥ずかしい時も、もうすぐに終わる。立って歩けるほどの浅い湖にこの高さから落ちれば。
 だがその瞬間は訪れる事はなかった。揚羽の身体がぶつかったのは、水面でも、そのすぐ下にある湖の底でもなかった。揚羽の身体を湖の上で受け止め、包み込むようにして再び持ち上げたのは、数本の光の糸。網のように重なった青い糸を引き上げているのは、空中に漂ういくつもの火の玉。それらの火の玉が、網に捉えた揚羽を岸へと運んで行く。
 触手が再び襲いかかって来たが、光の糸に触れると、まるで熱い物に触れたかのように弾かれる。だが弾かれた触手はすぐに気を取り直したかのように再び襲って来る。
 ふと湖の岸の一画を照らす光に気付いて目を向けると、そこには白い衣と緋袴に身を包んだ一人の女が矢を構えていた。彼女の周りにはいくつかの青い炎が宙を漂い、構える矢の矢尻もまた青い炎に包まれている。
「あの方は……」
 揚羽が呟いた時、その矢が放たれた。巨大な怪物の、大蛇の群れの中心に不気味に開く巨大な目に向かって疾走する矢。そして矢の先に輝く青き炎。
 だが怪物の目が大きく見開かれた瞬間、矢は赤い炎に包まれ燃え上がり、一瞬にして消滅した。

「あやけしの炎が消されるとは」
 怪物の目を睨んだまま、鈴音は呟いた。
 光の網に包まれた娘を再び捕まえようと躍起になっていた触手が、今度は鈴音の方へ向かって伸びて来る。
 それらの触手に向かって、鈴音の手からいくつもの炎が放たれる。炎に触れた触手はたちまち青く燃え上がる。だが燃やしても燃やしても、また新たな触手が向かって来る。
「やはりここは奥の手しかないのか。しかしあの手は我一人では……」
 鈴音が呟いた時、炎の攻撃をかわした一本の触手が鈴音の腕に巻き付いた。
「しまった!」
 絡み付いた触手を振りほどく暇もなく、新たな触手が絡み付いて来る。
 ほどなくして鈴音は手足に絡み付いた何本もの触手によって空中につり上げられ、不気味に蠢く大蛇の群れ野中に開く巨大な目の前に、両手両足を大木区広げた状態で拘束されてしまっていた。
『ずいぶんと勇ましい女子よのぉ。臆病な女子を笑わせるのもよいが、そなたのような女子が我が指の蠢きにどのような笑い声を上げるかも楽しみじゃ』
 怪物の声が、鈴音の脳裏に響く。
 その時、鈴音にある考えが浮かんだ。自分一人では使えないあの手が、今なら使えるかもしれない。目の前にいる化け物を完全に倒す事はできなくても、自分とあの娘をこの場から遠ざけるのに必要な時間を作る事くらいなら……。
 鈴音は怪物の目を見据えて言い返した。
「やれるものならやるがいい。だが、後で後悔しても知らぬぞ」
『そうか。それなら遠慮なく笑って頂こう』
 鈴音の手足に絡み付いていた触手から無数の枝が伸び始めた。伸びる枝の先が、人の手の形に変形して行く。
 それらの手が鈴音の太股や脇腹、腋の下などにたどり着くと、一斉に指を蠢かせ始めた。人間の身体の中でくすぐりに弱いそれらの場所から、耐え難く妖しい刺激が同時に送り込まれる。
「くうっ、んくっ、くはぁっ、むむっ!」
 凄まじい刺激の嵐が笑い声となってこみ上げて来る。その笑い声を必死に堪える鈴音。その様子を面白がってか、くすぐりの手の動きはなおも激しさを増して行き、新たな手があらたな場所で耐え難い蠢きを開始する。
 腰やお尻、背中、そして服の中へも侵入し、全身の柔肌や胸の膨らみをも無遠慮に這い回る無数の指。
 それらの指の蠢きに操られるかのように、鈴音の身体も激しく蠢きもがく。だがいくらもがいても、手足を拘束する触手からは逃げる事はできない。それをいいことに、無数の指は鈴音のさらに耐え難い場所を求めて這い回り続ける。その凄まじい刺激に、鈴音はもう目を開いている事ができなかった。
 やがて今まで堪えていた刺激の嵐が巨大なうねりとなり、爆発した。
「きゃははははぁ、くすぐったい! くすったくてもうだめぇ、きゃははははは!」
 鈴音の喉からついに迸った甲高い悲鳴と笑い声。その声は一度噴き出してしまうと歯止めが効かず、蠢き続ける無数の指のなすがままに高さと激しさを増して行く。
『生意気な小娘め、口ほどにもないではないか』
 その言葉を聞いた鈴音は、凄まじい刺激の嵐の中で目を開いた。そして、巨大な目を取り巻く大蛇の身体に無数の青い光の斑点が浮き出しているのを見て取った。そして、なおも一層高らかに笑い声を上げた。
 怪物が自らの異変に気づいたのはその直後だった。
『ぐっ、なっ、なんと……』
 怪物のその言葉と同時に、大蛇の群れに浮き出していた青い光が一斉に火を噴いた。赤黒い大蛇の身体のあちこちからから青い火の粉が噴き出し、みるみるうちに広がって行く無数の傷口からさらに大量の炎が噴き出す。鈴音を拘束していた触手にもまた無数の裂け目が走り、青き火の粉を吹き上げる。
 鈴音の口からはなおも激しい笑い声が迸り続けている。その笑い声に吹かれ勢い付いたかのようになおも激しく燃えさかる青き炎。
『この笑い声、もしや貴様は……』
 火の海に包まれた怪物の言葉は最後まで続かなかった。次の瞬間、鈴音の甲高い笑い声の中で、怪物の断末魔の悲鳴が山の森に響き渡った。

「一体何が? まさかこの笑い声であの化け物を?」
 光の網によって無事に岸まで運ばれた揚羽は、青き炎に包まれながら湖の底へ沈んで行く怪物を見ながら呟いた。
 以前、揚羽は育て親である村長から聞いた事があった。笑いによってあらゆる邪悪な存在を祓う巫女の話を。そしてかの巫女は、この山に住むどのような妖怪をもしのぐ霊力を持っていると。
 聞いた時は半信半疑だったが、今目の前で起こった出来事は、それが事実である事を物語っていた。
 やがて宙に浮かぶ光の糸に乗って岸に戻って来る恩人の姿が見えて来た。
「死んだのですか?」
 揚羽は岸に降り立った恩人に尋ねた。
「いや。あれほど凄まじい霊力を持つ妖怪だ。すぐにでも復活するだろう。早くここを離れた方がいい」
 恩人の低く静かな声は、さきほどの激しい笑い声からは想像し難いものであった。その瞳はどこか寂しげで、どのような面白い話を聞かせても、どのような美しい物を見せても、決して笑う事などないようにさえ思えた。
「あ、あのっ、助けて頂きありがとうございました。何とお礼申し上げればよいか。えっと……」
 そこで揚羽は、恩人の名前を聞いていなかった事に初めて気づいた。
 それを察してか、恩人は告げた。
「我が名は鈴音。妖怪に襲われし乙女を助けるは我が務め。礼には及ばぬ」
 やはり揚羽の想像していた笑い巫女とは違う。笑い巫女は祓いの儀式の時だけでなく、常日頃から笑いを絶やさぬよう人一倍明るく振る舞い、にこやかに笑っているものだと思っていた。
 揚羽の村にも巫女はいる。彼女たちは悪戯好きで、人の顔を見てはいつも機嫌を取るかのように笑っている。だが今の鈴音の顔には笑みのかけらもない。
 もしかしたら、彼女も昔はその名のとおりいつも鈴の音のような声で笑っていたのかもしれない。もしそうならどのよう出来事が彼女を変えたのだろう。
 だが揚羽は鈴音の予想外の冷静沈着ぶりに、何か惹かれるものを感じていた。
「そなたの名は?」
「はい。揚羽と申します」
 名前を聞かれ、揚羽は胸を張って答えた。
 鈴音はいきなり自分の服をはだけ、大きく広げた。そしてその服で自分と揚羽の身体を包み込んだ。
「す、鈴音さま……」
 その時、揚羽はそれまで自分が裸だったという事に気づいた。
「入るといい。そなたの村まで送ろう。この近くなのか?」
 鈴音の問に、揚羽は躊躇いがちに頷く。
「え、ええ。でも、私はもうその村の人間ではないのです。戻ったところで受け入れて頂けるかどうか……」
「追放されたのか?」
「そうではありません。私は村の守り神の生け贄となるはずだったのです」
 その言葉に、鈴音は目を見開いた。
「何だって? それではあの妖怪は……」
「そう。私たちの村ではあの化け物を千手妖華と呼び、守り神として崇め、その求めに従って生け贄を捧げているのです」
 言いながら、揚羽は改めて思い出した。たとえ姿は想像していたものと違っていたとしても、あの化け物は、揚羽の村にとって大切な存在。あの化け物が存在するからこそ、村人たちは他の妖怪に襲われることなく平和に暮らす事ができる。その化け物が死ななかったのは、揚羽の村にとっては幸いな事だったのだ。
「そんなバカな事があってなるものか。そのような因習、早急に廃止されて然るべきであろう」
 確かにそれが実現すれば、なんと素晴らしい事だろうと、揚羽も思う。今までは不可能であった。しかし、今ならそれができるのではないか。他の妖怪どもを村に寄せつけなかった千手妖華をたとえ一時的にであっても退散させる事ができた鈴音であれば、生け贄などという因習を廃止しても村人が平和に暮らす事を可能にする何かをもたらしてくれるのではないか。
「参りましょう。私たちの村へ」
 一つの衣に身を包んだ二人の女は、湖の周りを取り囲む深い森の中へと足を踏み入れた。

 あやけしの炎が青く照らす森の中を、鈴音は揚羽に寄り添いながら足早に、しかし慎重に歩いた。
 ここは人里ではない。妖怪ひしめく山の森なのだ。いつ妖怪に出くわしてもおかしくはない。
 今は近くに妖怪の気配は感じられない。やはり揚羽の言うとおり、さきほどの化け物が他の妖怪を遠ざけていたのだろうか。
 だが油断は禁物だ。妖怪の中には自らの気配を消す力を持つものもいるのだから。
 それでも自分たち巫女にとっては、そして巫女によって守られた村の女たちにとっては、人里よりも妖怪ひしめく山の中の方がはるかに安全なのだ。
 今、人里では男たちが戦を繰り返している。この世の全てを手中に収め、支配するために。
 男たちのその身勝手な欲望は、多くの女たちを犠牲にした。
 戦に巻き込まれて死んで行った女たち。あるいは占領軍の兵士たちに散々犯された後、無惨に殺されて行った女たち……。
 だから一部の女たちは選択したのだ。人里を離れ、妖怪ひしめく山の中へと身を隠す事を。
 山奥への道を開いたのは、強い霊力を持つ巫女たちだった。
 巫女に先導されて山に入った女たちは、それぞれ村を作った。巫女は村の周りに結界を張り、結界を破って村に侵入した妖怪がいれば強大な霊力でそれを制す。
 だが、長い年月を経るうちに巫女の力を失ってしまった村も少なからず存在する。そのような村に住む女たちは、もはや自分たちの力では妖怪の牙から身を守る事はできない。だから、村の近くに住む強大な力を持つ妖怪を守り神として崇める。そして村によっては、その妖怪に生け贄を捧げると言う。
 その事に対して今、鈴音は激しい憤りを覚えていた。
 旅の途中で何度かそのような村を訪れた事はあったが、今のような憤りを覚えたのは初めてだった。
 それはもしかしたら、実際に一人の娘が生け贄に出されようとしている所を目の当りにしたからかもしれない。
 今までは話に聞いただけの因習。それがこれほど忌まわしいものであったとは。
 ――必ず廃止させなければ。
 強い決意を胸に抱きながら、鈴音は揚羽の案内する村への道を急ぐのだった。


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