ミニメロン作品

学園祭で行こう

8
 大学という場所に足を踏み入れるのは、美鈴にとって初めての事だった。敷地内に並ぶいくつもの建物を繋ぐ広い道には、多数の車が行き交い、学校というよりはまるで小さな町のように感じられた。
 敷地の一画の駐車場で美鈴と琴音を降ろした赤い車は、整列している他の車の間に器用に滑り込んだ。
 車から降りた恵美先生は美鈴たちに再び合流すると、ハンドバッグから取り出したメモを見ながら先に立って歩き始めた。
「えっと、総合心理実験棟は……」
 メモ用紙に描かれた地図と周りの風景を何度も見比べる恵美先生。
 建ち並ぶ建物はいずれも銀色の光沢を放ち、真新しい機能美を誇っている。
 今年初めて卒業生を送り出したという、まだ設立されて間もない女子大ではあるが、入試の競争倍率は年々急上昇し、早くも難関校として知られている。
 文学部から工学部まで、様々な学部が同じ敷地内にあり、学生は自分の所属とは別な学部の講義をも自由に受講する事が可能である為、各自の学びたい事を自由に学ぶ事ができる。また、他では行なわれていない珍しい研究も多数、卒業研究として行なわれているという。
 それらの事が、この女子大の人気の秘密なのだと美鈴は思う。今彼女たちが訪ねようとしている場所も、そのようなユニークな研究が行なわれている研究室の一つだった。
 地図上から自分たちの現在位置を見付けるのを諦めた恵美先生は、近くを通りかかった学生に道を尋ねた。
 学生に教えられた道順に従って、三人はようやく目指す建物を見付けた。外見は他の建物とほとんど区別がつかない。玄関の脇に彫られた名称が、他の建物と区別する唯一の手掛かりだ。
 総合心理実験棟という名前の、その建物に入ってしまえば、目指す部屋はすぐに見付かった。部屋の扉のプレートには、「田島助教授」と書かれている。
 恵美先生がノックすると、すぐに返事があった。
「どなたかしら?」
「椎名です」
「あ、恵美ちゃん、今開けるわ」
 ほどなく開いたドアの向こうには、白衣姿の若い女性が立っていた。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪が、肩のすぐ下まで伸びている。凛々しそうな美貌には明るい笑みが浮かび、輝く瞳がまっすぐ恵美を見つめていた。
「待ってたのよ。さあ、入って」
「失礼します。さあ、あなたたちも」
 恵美先生に促されて、美鈴と琴音が中に入り、最後に恵美が入った。
 専門書の並んだ本棚にほとんどのスペースを占領された狭い部屋の中央に、ノートパソコンと書類の山を載せた小さなデスクがある。
 部屋の隅には冷蔵庫やコーヒーメーカー、それに寝袋まで置かれている。これなら何日も外へ出ずに仕事をし続けても、餓死する事はないだろう。
 白衣の女性はドアに鍵をかけると、本棚の間から取り出したパイプ椅子を広げ、皆を座らせた。
 コーヒーメーカーの方へ向かった白衣の女性を、恵美先生が呼び止めた。
「どうぞお構いなく。時間がないからさっそく用件を言うわ」

 恵美先生は今日の昼休み、あくまでもイベントの準備再開の為に頑張るという生徒たちに折れたすぐ後、さっそく相沢千春の元担任から入院先の病院を聞き出し、電話をかけたのだ。
 しかし、千春の主治医を名乗る大原望美という女性は、恵美の申し出を頑に拒んだのだ。
「私たちの患者に対して部外者に勝手な真似をしてもらっては困るわ。それに、彼女は今、とても不安定で危険な状態なの。一歩間違えれば、彼女の症状が悪化したり、誰かが怪我をしたりするだけでは済まないのよ」
 恵美がどう説得しても、主治医のその意見は変わる事はなかった。
 電話を切った後、しばらく頭を抱えていた恵美は、ふと、小中学校時代の親友が大学で心理学の研究をしている事を思い出したのだった。
「大原先生? 彼女なら私も知ってるわ。紹介してあげてもいいけど、そうねぇ、ちょっと条件があるわね。一度、こちらへ来て頂けないないかしら」
 電話の向こうのその言葉に従って、恵美は美鈴と琴音を連れて、大原助教授の研究室へとやって来たのだ。

「儀式によって彼女を元に戻す事ができれば、文化祭のイベントの許可もきっと下りるとと思うの。だから……」
 恵美先生が話している間、沙織はコーヒーメーカーをセットし、冷蔵庫の脇に無造作に置かれていた縫いぐるみを取り上げ、抱き抱えながらデスクの前の席に戻った。
 沙織の膝の上に座らされた縫いぐるみは、全身が白い毛で覆われている。アザラシのような動物に似せて作られており、沙織の身長の半分ぐらいの大きさがあった。目をパッチリと開いた可愛らしい顔を恵美たちの方へ向けている。
「これ、ここの研究室の学生が考案した抱き枕なのよ。こうして眺めているだけでも可愛いでしょ? でも、それだけじゃないのよ。この辺りをこうすると……」
 沙織は縫いぐるみの脇腹辺りを手で撫でた。
 クィクククゥ、クァックアックフゥ……。
 縫いぐるみがクネクネと蠢き、可愛らしい鳴き声が聞こえて来た。
「どう? さっきよりも、ずっとずっと可愛いでしょ? もっともっと、悪戯してみたくなるでしょ?」
 沙織が撫でる手の動きを速めると、縫いぐるみはさらに激しく身悶え、鳴き声も激しくなる。
 その様子を、恵美先生をはじめとする三人の客人は、ただ呆然と眺めていた。
「この子の身体から生えている毛の一本一本の根本にマイクロスイッチが付いていて、毛の向きを検知するの。その向きの単位時間当たりの変化量によって、声や仕種を変えるのよ。今、うつ病の治療に使えないか、実際に病院等で検証してもらっている所なの」
 沙織が手の動きを止めてからしばらくすると、縫いぐるみの鳴き声と動きは次第に弱まった。
 動かなくなったぬいぐるみをそっと抱え上げ、デスクの上に置く。席を立つと、再び部屋の隅へ行き、コーヒーカップを一つだけ取り出した。
「協力してもらっている病院はいくつかあるけど、中でも大原先生の所へ持って行った時は、『こんなもので患者の治療ができるものか』って、バカにされたものだわ。でも、今では私たちの研究も、一目置かれてるの」
 席に戻った先生が、自分の分のコーヒーを一口すすると、カップを机の上に置いた。
「だから、私が紹介すれば、きっとあなたたちにも協力してもらえるわ。でもその前に、ちょっと願いがあるの」
「それはどんな事かしら」
 恵美先生が恐る恐る聞き返した。
「研究の為のデータを取らせてもらいたいの」
 何のことかよく分からないといった顔の三人を見回すと、沙織はカップのコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。
「ちょっとこちらへ来て頂けるかしら」
 さきほど入って来たドアを開き廊下へと出て行く沙織に、三人も続いた。
 沙織はすぐ隣の部屋のドアを開けた。さきほどの部屋と同じように、ほとんどの空間を本棚で占められていたが、部屋の中央にはぶら下がり健康器のような物が置かれている。
 黒く塗装された金属のパイプで出来た、背の高い、しかし幅の狭い鉄棒。
 しかし、普通のぶら下がり健康器と異なり、ぶら下がる為の上部の横になったフレームには、革製の小さなベルトが二本取り付けられている。
 全体を支えている土台部分には、やはり金属で出来た四角いフレームが水平にはめ込まれており、丈夫な布が張ってある。
 そのフレームは穴がいくつも開いた別なフレームにネジで固定されており、高さが調整できるようになっているらしい。
 そして、その左右には、やはり革製のベルトが取り付けられている。
 その怪しげな改造の施されたぶら下がり健康器を取り囲むように、四人の若い女性が立っていた。
「協力って……まさか」
 目を見開き呟く恵美の耳許で、沙織が囁く。
「そうよ。くすぐられる人間の反応に関するデータをできるだけ多く集めたいの。もちろん学生のデータも毎日のように集めてはいるけど、被検者は多いに越したことはないわ」
 沙織の怪しい微笑みに、恵美はやっとの事で頷いた。
「わ、分かったわ。柳沢さん、あなた、こういうの好きでしょ? 協力してあげて」
「は、はい」
 指名された美鈴が健康器に向かって歩き出そうとするのを、沙織の声が制した。
「待って」
 三人の客人は、沙織の方へ一斉に顔を向けた。
「私は、ぜひあなたのデータが欲しいの。全身を寄ってたかってくすぐられるあなたがどんなふうに身悶え、どんな悲鳴を上げるのか。とっても興味があるわ」
 意地悪な輝きをたたえる沙織の瞳は、まっすぐ恵美へと向けられていた。

「被検者はみんな、これを身に付けてもらう決まりになってるの。それから、靴下は脱いでちょうだいね」
 そう言いながら沙織が手渡した薄手のトレーナーは、恵美先生のサイズにぴったりだった。
 恵美先生が着替えている間、女子学生たちは、布を張ったフレームの高さを調整していた。
 恵美先生の素足が布の上に載った時、そこが布であり床から離れている理由に思い当たった美鈴は、一瞬自分の足の指を靴の中で蠢かせた。
 布によって支えられた恵美先生の足が、ベルトによって固定される。
 その状態で身体を真っすぐに伸ばし、手を上に伸ばすと、掌の位置がちょうど頭上の棒の所に来た。その棒を握る手が、やはり学生たちの手によりベルトで固定される。
 その間、恵美は不安そうに震える目で学生たちの作業を見回していた。
 沙織は美鈴の前に立つと、顎に指をかけ、自分の方へ視線を向けさせた。
「そんなに怯える必要はないんじゃなくて? 小さい頃は、私があなたにされていた事だもの」
 言いながら、今や手足を完全に固定されてしまった恵美の無防備な左の脇腹に、後ろに立った沙織の左手の指が一本滑る。ただそれだけで、すでに恵美は耐えられない様子だった。
「ひぃっ!」
 眉根を寄せた恵美の口から悲鳴が迸り、身体がガクガクと震える。
「あらあら、この程度でどうしたのかしらね。これから何十本もの指に這い回られるっていうのに」
 言いながら、沙織は恵美先生の反応を楽しむかのように、小さな円を描くように滑る指の位置を少しずつ変えて行く。
「あふぅっ、ああっ……お、お願い、あたし、くすぐられるのはダメなの。だからもう許して」
「あら、あたしが最初にあなたにされた時、同じ事を言ったと思うけど、あなたは許してくれたかしら?」
「ごめんなさい、謝るから、だから許して、あたし、ひゃうぅっ!」
 沙織の指の動きに身を震わせながら悲鳴を上げる恵美先生。しかし、指はそれまでと何らかわらず動き続ける。
「別に謝ってもらう必要はないのよ。むしろあなたには感謝したいくらい。だって、あなたが教えてくれたんですもの。くすぐったくてたまらないのに、なおも激しくくすぐられ続けると、そのうちとってもく気持ちよくなるっていう事をね」
 沙織は左の指を小刻みに動かしながら、右手の一本指を腋の下から脇腹へと滑らせた。
 恵美先生の悲鳴と身悶えがさらに激しくなったが、そんな物など聞こえないかのように、沙織は恵美先生の耳許で意地悪な言葉を囁き続ける。
「あなたも本当は分かってたはずよ。だから私がどんなに頼んでも、やめなかったのよね。後で自分が同じようにされるのを、心のどこかで待ち望んでいたのよね」
「違うの。いやがるあなたの反応が面白くて、やめられなかったの。だから、謝るから、お願い」
「それじゃ、なおさらあなたを存分に責めてあげなければいけないわね。こんなに気持ちいい事を、ただ恐がって経験しないなんて、不幸以外の何物でもないわ。私がたっぷりと教えてあげる」
 沙織は両手の全ての指を恵美の腋の下の窪みに押し当てると、激しく蠢かせ始めた。
「いやぁっ、きゃははははは、だめぇ、いきなりそんな所ぉ、きゃははははぁ!」
 人間の身体で最も弱い部分へ生地を通して伝わって来る耐え難い刺激から逃れようと、先生はたまらず腕に力を込める。しかし、手首をしっかりと固定されている腕は、ただ虚しくもがくのみ。
 美鈴は、今まで恵美先生がだれかにくすぐられる所を見た事がなかった。そして、これほど激しく笑う恵美先生の顔も。普段は冷静沈着な教師が、今や妖しく蠢く指のなすがままに顔を大きく歪め、笑い悶えている。
「さあ、そこの生徒さんたちも、こっちへ来ていっしょにやりましょうよ。先生をくすぐれるなんて滅多にないチャンスでしょ?」
 指の蠢きを止める事なく美鈴と琴音に声をかける沙織。
「でも……」
 恵美先生がこれほどくすぐりに弱いとは、美鈴にとって意外だった。これ以上激しくくすぐったら一体どうなってしまうのか。
 美鈴が躊躇していると、隣に立っていた生徒が進み出た。
「琴音ちゃん……」
 美鈴の呼びかけに答えぬまま、琴音は静かに先生の目の前に立った。
「先生、覚えてますか? 私が忘れ物をして、先生にお仕置きされた時の事。あたし、あの時とっても怖かったんです。くすぐられるのが、すごく怖かったんです」
 琴音の言い方は静かだったが、その声は先生の笑い声にかき消される事なくはっきりと聞こえた。
「自分がくすぐられるのはいやなのに、こんなに苦手なのに、生徒の事は平気でくすぐるなんて……」
 琴音の両手がゆっくりと、先生の脇腹を目指して伸びる。
「きゃはは、ご、ごめんなさい。もうしない。もうしないから……きゃはははぁっ」
「もうしないなんて、そんな残念な事言わないで下さい。私はただ、知ってほしいだけなんです。くすぐられるっていう事がどういう事なのかを」
 琴音の指が脇腹に食い込み、激しく蠢き始めた。
「きゃはははぁ、だめぇ、そこだめぇ、きゃはははははぁ!」
 甲高い悲鳴が部屋に響き、恵美の身体がさきほどにも増して激しく痙攣する。その耳許で沙織が囁いた。
「ふふっ、この程度でそんな大声を上げてたら、大変よ。だって、これからあなたはそこの学生たちに全身をくすぐられるんだから」
 恐怖に目を見開く恵美先生。
「いやぁっ、そんな事されたら死んじゃうわぁ。きゃはははははぁ!」
「だいじょうぶ。今まで被検者になってもらった学生もほとんどがものすごくくすぐったがりで、最初は死ぬとか言ってたけど、実際にそうなった子は一人もいないから」
「そんなぁ、きゃはははははぁ!」
「さあみんな、いつものように、存分にくすぐって差し上げなさい」
「分かりました」
 沙織の掛け声に、四人の女子学生たちが声を揃えて返事すると、そのうちの三人が、身悶える恵美先生を取り囲んだ。
 あらかじめ役割分担が決まっていたかのようにそれぞれの位置に付くと、恵美先生の腰や、タイトなミニスカートから伸びる太股に手を伸ばす。腰に食い込んだ指がそこを激しく揉みしだき、太股の指が妖しく蠢きながら這い回る。
 部屋に響いていた悲鳴と笑い声がより一層激しくなった。しかし学生たちの指の動きは容赦なく激しさを増して行く。
 太股を這い回っていた指の一部が下へ下へと降りて行き、足を支える布の下に回り込み、這い回る。恵美先生の綺麗な足がたまらず指を蠢かせ、布の下を這い回る刺激から逃れようとする。だが、足首を固定しているベルトは決してそれを許さない。
 くすぐりに参加していないもう一人の学生が、近くの棚の引き出しから小型ビデオカメラを取り出し、笑い悶える恵美先生に向けて構えた。
「きゃははは、ちょっと、何撮ってるのよ!」
 カメラに気付いた恵美先生が大声で叫んだ。
「安心して。研究目的以外には使わないから」
 なおも腋の下を激しくくすぐりながら、沙織が囁いた。
「そういう問題じゃ……きゃははははぁ、ああぁぁっ、もうだめぇ、きゃはははははぁ!」
 恵美先生の抗議の言葉は笑い声にかき消されて言葉にならない。
「さあ、美鈴ちゃん、だったかしら。あなたもこちらに来て楽しみなさい」
「は……はい」
 沙織に呼ばれた美鈴は、笑い悶える先生の艶めかしさに吸い寄せられるかのように、先生の身体の方へ手を伸ばしながら近づいて行った。

 恵美先生へのくすぐりは、先生の声が渇れ、身体がぐったりと動かなくなるまで続けられた。
 学生たちが先生の手足の拘束を外している間、沙織は自室に戻り、紹介状をしたためていた。
 拘束を解かれた先生が、学生たちにさし出されたパイプ椅子にヨロヨロと座り込んだ時、沙織が一通の封筒を持って戻って来た。
「この分じゃ、運転は無理ね。今日は私が送ってあげるわ」
 恵美先生の脇に腰を降ろし、汗でぐっしょりと塗れた恵美の髪を指先で掻き上げながら、沙織が呟いた。
 その背後に、さきほどの学生たちが立つ。
「先生、今日は私たちには、して頂けないんですか?」
「そうですよ。毎日楽しみにしてるのに」
 学生たちが、残念そうな声で沙織に訴える。
「仕方がないの。どうしてもほしかったら、あなたたちだけでやってちょうだい」
「分かりました」
 学生の一人が小さな声で答えた。
「それじゃ、行きましょうか」
 沙織は恵美先生の肩を担ぎ上げるようにして椅子から立たせた。美鈴に封筒を渡すと、恵美先生を肩に背負ったまま、ドアの方へ歩き始めた。
 二人に続き、琴音と共に廊下を歩く美鈴。手にした封筒の口は、閉じられていなかった。
 好奇心にかられ、沙織に見付からないように中味を取り出し、目を通す。
 ――な、何これ!
 そこに書かれた内容に、美鈴は思わず声を上げそうになった。

『大原望美先生、私の事、覚えてらっしゃいますよね。あなたが私の可愛い教え子たちの手によって身悶えるあられもない姿。それをしっかりと収めた映像は、現在も貴重な資料として研究に活用させて頂いております。
 もしも万が一、私の頼みを拒否されるようであれば、その映像がどうなるか、よく考えた上で、以下に目を通して頂ければ、大変助かります……』

 病院の事務室で、白衣姿の美女が頭を抱えていた。真っすぐな黒髪を肩の所で切り揃え、前髪も眉の上で切り揃えている。車の中でどうにか体力を回復した恵美先生が手渡した紹介状を、今読み終えた所だった。
 事務所の壁には、いくつものテレビモニターが埋め込まれ、病棟の様々な場所、主に病室内の患者の様子が映し出されている。
 目を見開いたままベッドの上に横たわり微動だにしない患者もいれば、コンクリートの壁を相手に一日中蹴りや拳を繰り出し、手足から血を流し続けている患者もいる。
 望美の話によれば、相沢千春の病室にも他の病室と同様に監視カメラが取り付けられていた。しかし、千春がその病室に来てから数日もしないうちに、そのカメラからの映像が途絶えたのだと言う。
 原因調査の為、これまで何人もの技師がその部屋に入ったが、誰一人として戻った者はなく、病室のドアに設けられた特殊強化ガラスの窓からも、消息を確認する事はできない。
「それでも、あなた方はやるというの?」
 望美は、自分の前に集まった者たちの顔を今一度見回した。
 恵美先生と制服姿の美鈴と琴音、そして、大学からこの病院へ来る途中で合流した魔術研究会のメンバー数名。
 鳴瀬真弓を始めとする彼女たちは、黒い布で頭をすっぽりと覆い、全身も黒い服で包んでいる。首には複雑な飾りの彫られた十字架がかけられている。
 修道院のシスターを思わせるその衣裳も十字架も一見高そうだが、実際は近くの雑貨屋で急いで買った物だそうだ。
「もちろんです」
「やらせて下さい」
 望美の問い掛けに、皆は一斉に頷いた。
「いいでしょう。それでは私も一緒に行かせてもらいます。あなた方に何かあれば、私の責任になるのですから」

 先頭に立って廊下を歩く望美のすぐ後ろで、美鈴は通りすぎようとしていた階段脇のエレベーターを指さした。
「これは使えないんですか?」
「ええ。閉じ込められる危険性があるから、特に今みたいな危険な任務の遂行中は、使わない方が無難ね」
 望美は振り返ることなく答えると、目の前の階段を登り始めた。
 目指す階は五階。学校の建物よりも上の階まで自分たちの足で登ると言うのは、それだけで重労働であったが、皆、望美の忠告には素直に従った方が良さそうだと本能的に感じていた。
 目的の階に着き、再び廊下を歩き始めた時、美鈴の足に何かが絡み付いた。
「きゃぁっ!」
 悲鳴を上げた美鈴を望美が振り返る。
「どうしたのっ?」
 隣にいた琴音も、他の生徒たちも、一斉に視線を美鈴に向ける。
「何かが足に……」
 慌てて足もとに視線を向ける美鈴。しかし、そこには何もなかった。ただ床の上に立つ自分の足があるだけだ。
「いえ、何でもありません」
 目を見開いたまま小さな声で答える美鈴。
「大丈夫?」
 琴音が美鈴の肩に手を置き、恐怖にかられた顔を覗き込む。
「ええ、平気」
 美鈴はなんとか笑顔を作り、頷く。一行は再び前に進み始めた。
 ほどなく、目的の部屋の前に辿り着いた。
 望美は白衣の裾をめくり、ズボンのベルトにくくり付けられていた鍵束を外した。何十本もの鍵から、一本を選んで金属のリングから外す。
 その瞬間、鍵が望美の手を離れた。まるで意志を持ったかのように、望美の指から逃れるかのように。
 鍵は猛スピードで宙を飛び、ドアの鍵穴に突き刺さり、回った。
 恐怖に顔を歪める医師と教師、それに生徒たち。しかしだれも悲鳴を上げる暇などなかった。
 ドアがひとりでに、音を立てて開け放たれた。


7 戻る 9