いつもの事・・・・本当にいつもの事ではあるが、自分の所属する『組織』の表企業において、日頃の予定やノルマの定まっていないお飾り社員である影山は、それ故にスケジュールと言う束縛に捕らわれないため、実に気ままな日常を過ごしている。
それは思い立ったが吉日と言う諺が真理であるかのように、唐突に、そして衝動的に行動する。
気まぐれ・・・・と、一言で済ませられる行為ではあるが、彼の場合、その行為の範囲に予想がつかない事が多く、これが周囲の関係人物における悩みと言えた。
これは、そんな彼が巻き起こした、ちょっとした騒動のお話・・・・・
いや、幾つも存在する騒動の中の一つである。
某企業の重役用個室の一つで黙々と執務をこなしていた曽我部は、秘書であるローラの報告に、不覚にも耳を疑った。
「影山様からホットラインです」
執務に専念している時の曽我部は、可能な限り雑念を排除するため、通常の連絡は取り次がないようにさせている。
重要連絡回線であるホットラインからの連絡となると、さすがに話は別であったが、それが影山からと言う事実が、彼女には信じられなかったのである。
「どうなさいますか?」
ローラの問いかけに、曽我部は少し思案してデスク備え付けの受話器を取り、保留状態となっていた回線を繋げる。それを見たローラは無言で一礼して自分のデスクへと戻った。
「もしもし?珍しいわね。貴方から連絡してくれるなんて。で、また、面倒な依頼かしら?」
過去の事例から、彼の方から連絡がある時にプライベートな話題である事はなかった。『ちょ〜っと、聞きたい事があるんだけど』
明らかに何かを隠している様相で、受話器の向こうの影山は切り出した。
「あら私に?調べ物じゃなくて?」
曽我部にしても、彼が何を企んでいるのか、大いに興味があった。
『曽我部さんの知り合いに、魔法学校に通っている人っているかな?』
「・・・・・・は?」
曽我部はまたも自分の耳を疑った。
『だから・・・魔法学校・・・』
「ちょっと待って、ちょっと待って。魔法学校って何?」
普段、誰にも見せたことのない上司の『素』の反応と、予想範疇にも無かった単語を耳にしたローラも何事かと会話中の上司に視線を向けたが、当の曽我部はその視線にも気づかず、受話器の先の相手との会話を続けていた。
『何って、結構有名だろ、小説や映画で・・・・あのハリ・・・・』
「あなた、あれの存在、本気で信じているの?」
間違ってもホットラインでする様な類の内容ではない。
『現実は小説よりも奇なり・・・あるかもしれないじゃないか』
その口調に偽りの意志は微塵も感じられない。
「貴方の発想の方が遙かに奇よ・・・生憎だけど、私の知り合いに魔法使いはいないわ」
『組織の魔女と言われる貴女だからひょっとして・・・・と思ったけど、やっぱり駄目か・・』
「当然です!そもそも『魔女』って異名を広めたのは貴方でしょ」
『あれ?知ってたの?』
「当たり前です」
『うわははははははははは』
「笑って誤魔化さないように。そんな話題のためにわざわざホットラインを使ったの?貴方からなら通常回線でも相手してあげたのに」
『そうは言ってもこの回線でないと、この時間帯の曽我部さんは取り次ぎもしないですからね。まぁ、それは別として、知り合いがいないなら仕方ない。変わりに曽我部さんの文献で、魔導に関する物があれば貸していただきたいんですけど・・・・』
「魔導?貴方、今度は何をしようとしてるの?」
これまた意外なジャンルに、曽我部が眉をひそめる。
『まだ何もしてませんよ。しようとするために資料が欲しいんですよ』
「それなら組織の魔導部門の公開資料を閲覧すればいいじゃない。貴方のレベルのIDなら、全ての資料が閲覧できるでしょ」
『あれは駄目です。魔導を科学的に説明・解釈しているやつばかりで、根本となる資料が皆無なんですよ』
「根本?」
『だから・・・・儀式の時期はいつとか、使用する原材料を明確に示した物とか、そう言ったオカルト方面の資料ですよ』
「いわゆる、お呪(まじな)いの本ね・・・・・コックリさんじゃ駄目かしら?」
『あの手のは、近所の本屋で手に入りますよ。聞きたいのは・・・』
「判ってるわよ。多分、書庫に何冊かあったと思うから、今度届けさせるわ」
『宜しくお願いします』
「それじゃ・・・言っても無駄だろうけど、馬鹿な真似はよしなさいよ」
『善処します』
相変わらずの返事を最後に、ホットラインは切れた。曽我部は受話器を置くと、影山が何を企んでいるかを考えてみたが、現時点での情報からではどうしても納得できうる予想が出てこなかった。
「ねぇ、ローラ」
おもむろに曽我部は秘書に問う。
「はい」
主に呼ばれたローラは無駄のない動きでデスクから立ち上がる。
「貴女、魔法って信じる?」
「は?」
ローラもまた、曽我部同様、自分の耳を疑った。そうなのである。たいていの人がこういう反応を示す学問(?)それが魔導であり、現代においては至極まともな反応であった。
数日後
影山の館に一人の訪問者が訪れた。
シンプルで無駄のないデザインのスーツを身に纏った、実年齢よりも大人びて見える銀髪の少女、ローラであった。
その左手には身体とは不釣り合いな程大きなジェラルミンケースが握られ、グリップと左手首には物々しい手錠がはめられ、それが重要品であることを物語っている。
ローラが玄関のチャイムを押すと、程なくして扉が開かれ、中からシャディが顔を出した。
「は〜い、お待たせしました・・・・」
「影山様、いらっしゃる?」
「セールスは結構です」
ローラが問うや否や、シャディがぴしりと言って扉を閉めた。スーツ姿の女性とジェラルミンケースと言う組み合わせが瞬時に目に入り、偏見ではあるが、そう判断したのである。
無論、単なる訪問販売員であれば物珍しい物が好きなシャディは話くらいは聞いたであろう。だが先日、色気仕掛けで大人の玩具を販売する女性販売員が館を訪れ、自分の知らない間に主が「楽しんだ」と言う一件が生じ、それ以来、シャディの女性訪問者に対する警戒が厳しくなったのである。
それはシャディの個人的感情であったが、そんな一個人の事情を知りようもないローラにとっては、その対応は好ましい物ではない。
「・・・・・・」
ローラは再びインターフォンを押したが、それは無反応によって迎えられた。
だが、それで諦める程ローラも弱くはなかった。自分が訪問販売員の類ではないと言う事実と、もともとの使命感と、気丈な性格が退くことをさせなかったのである。
ローラは三度インターフォンを押す。それも一度に一回ではなく連打であった。けたたましくチャイムが鳴り響き、その連射にチャイムのシステムがついていけない程であった。
「も〜うるさいなぁ!しつこいと警察を・・・・」
たまりかねて顔を出したシャディの表情が瞬時に強張った。彼女の眼前に、黒光りする銃口が突きつけられていたのである。
「影山様から御依頼を受けた物品、お届けに参りましたわ」
愛銃の一つ、ワルサーPPK/sを構えながらローラは言った。安全のため引き金にこそ指はかかってはいなかったが、銃口を突きつけられるという経験などなかったシャディに、それを理解する冷静さなどなかった。
「入れて・・・・下さるかしら」
「は、はいはいはいはい」
冷たい笑みを浮かべてローラが言うと、シャディは全身から冷や汗を流し、こくこくと頷いた。
強盗同様の手法で入館したローラは、早々に目的である影山との面会を果たした。先の連続コールを不信に思い、様子を見に来たところに丁度でくわしたのである。
「おや、君は確か・・・・曽我部さんところの・・・・」
「ローラでございます。御無沙汰しております影山様。今はこの様な状態なので失礼します」
ローラは会釈し、自分の左手がケースと繋がれているのを見せ、簡素な挨拶しかできないことを詫びた。
「それは?」
影山の注意は、すぐにそれに向いた。
「先日、影山様が御依頼していた書物です」
ローラは手錠を外し、床に置いたケースを開いて中の物を見せた。中には博物館でしかお目にかかれないような年季の入った色をした古びた書物が目一杯つめられていた。
「ああ!」
思い出したという風に言って、影山はローラのもとに行き、そのケースの中身を覗き込んだ。
「これはまた、厳重に移送してくれたんだな」
「内容はともかく、古書としては年代物で、古物としての方の価値はかなりすると言う事でしたので・・・・・」
そう言う物を掛け値なしに貸すことが出来るのも、曽我部という人物の器量であった。
「曽我部様は役に立つかは保証できないとおっしゃっていました」
ケースの鍵を外して開け、中にあった幾つかの書物を手に取り、ローラは主の忠告を簡潔に伝えた。
「ああ、承知している。ただ、古人がどういう考えのもとで儀式の形式や日程を定めたかを知りたかったんだ。その上で、魔導部門のデーターと照らし合わせて見たいと思ってね」
羊皮紙製の本を初めて見た影山は、好奇心一杯の眼差しで本を眺めながら応えた。
「それで、何をなさろうとされているんですか?」
「その質問は曽我部さんの意志かい?」
影山の視線が本からローラへと移る。滅多に読む機会のない書物とは言え、自分の所有物が利用されるのである。興味がないとは言えないであろう。
「それもありますけど、私自身の好奇心からでもあります」
魔導と言う、学会のみならず組織内においてもあまり本気で相手にされない分野である、どの様な目論見が目の前の人物の脳内で構築されているのか、興味は十分にあった。
「召喚って・・・・・知ってるかい?」
書物を手にして影山が問いかけた。
「はい。率直に申しますと、悪魔を呼び出す行為ですわね」
「うん。まぁ、悪魔に限定したモノではないけど、イメージはそれで合ってる」
「それをなさるんですか?」
彼女のその口調には、本気であるのかを問うているニュアンスが含まれていた。
「嘘か真か、その召喚ってのは、所謂、異世界へ通じる異次元の穴を空けるみたいなものだろ。それを科学的に証明して実現できれば・・・・・・・・・・・・」
ここまで言って影山は言葉に詰まった。ローラにはそれが、何か言葉を選んでいるようにも見受けられた。
「・・・・・・ぁ〜〜〜・・・ともかく凄い事だ・・・と言う事だ」
ここでローラは少し落胆する。結局、『穴』を空ける、SF的に言えば『異界の門を開く』事だけを目的として、その先を影山がまるで考えていなかったのを悟ったのである。
映画などで、この手のシチュエーションから始まる物語はたいていトラブルが起きて、異世界に飛ばされたり、異生物が現れてパニック物のストーリーになる。
その典型的出だしになっているなと思ったローラであったが、口には出さないでいた。
典型的であっても、それはあくまで物語であり、そもそも実際に穴を空ける行程が成功する可能性すら現在のところ皆無なのである。現実的に考えれば、彼女の心配は杞憂でしかなかった・・・・・・・本来なら・・・・
「ともかく、これが参考になればよろしいですけど、正直に言って保証は出来ません。一応、書物の貸出期間も特に指定されていませんので、返却の際は私に連絡いただければ引き取りに参ります」
「了解したよ。必要な文献をコピーして、早急に返却するよ」
影山がケースを手にしようとした矢先、ローラがそれを呼び止めた。
「・・・・・・あの、よろしければお手伝い致しましょうか?」
「!うにっ??」
思いがけないローラの発言に、やや過剰ではあったが本能的な女のカンと言うより嫉妬心が働いたのはシャディであった。
専属メイドのプライド・・・・以上に嫉妬から、答えるべき権利も無く否定の言葉を放とうとしたが、それより早く、権利所有者である影山がローラの手を取りその好意を素直に受け取ってしまった。
「宜しく頼むよ。古い本だから、まずは文献の翻訳から始めないといけないんで、結構手間がかかると思ってたんだけど、曽我部さんが自慢する君が手伝ってくれれば有り難い」
「あぅっ」
思いっきり先手を取られてしまったシャディは、勢いあまって床に滑り込んだ。
「?・・・・シャディ何やってる?」
「い、いえ、ちょっと躓いちゃって」
愛想笑いを浮かべて取り繕うシャディ。
「そうか?気をつけなよ・・・・・それは良いとして、ローラ君の方は良かったのかな?曽我部さん所の仕事とか都合は?」
「ええ、こうなるだろう事は予想していましたので、曽我部様の方にも許可は頂いております。その方が大切な書物を早く返して頂けますし、私が必要な事態になれば曽我部様の方から連絡がありますので」
「用意周到・・・・って、ところかな?それじゃ早速・・・」
影山がケースを持ち上げ、ローラと共に書斎へでも赴こうとしたその時、その眼前にシャディが姿を現した。
「旦那様っ」
声のボリューム自体は通常状態に抑えられていたが、妙な迫力があった。
「私もお手伝いしますっ!!!!」
「あ・・・ああ・・・・」
みなぎる気迫に気圧され、頷くことしか出来ない影山。
結局、影山の気まぐれな研究のお手伝いには、メイド衆全員が加わる事になり、当日の当番でない2名が交替で手伝う事となった。
ただ、見事としか言いようのないタイミングのドジに魅入られているマキだけは、ローラの真剣な要望と、書物の安全面を考慮し、お手伝いメンバーから外されていた。
その数日の間、仲間はずれにされていじけた彼女は、掃除の際、箒で「の」の字を無意識に連発し、これによって、館の庭の至る所に小さなミステリーサークルが出現し、ご近所の話題になってしまったというが、これは余談である。
文献の調査は連日連夜行われた。
まず、ローラが異国の古文章の要所を翻訳して音声入力型ワープロで文字入力し、それを影山がチェックし、必要と感じた部分に目印を付け、その部分をメイド衆がコンピュータを使用して最終的な翻訳と模写を行うと言う手順であった。
文献は膨大で、生半可な量ではなかったが、趣味的行為に関しては労力を惜しまない影山は、疲労など知らないかのごとく作業に没頭し、ローラも負けじとそれにつきあっていた。
これも余談ではあるが、この熱心さを仕事に活かせれば周囲の批評も覆せるのに・・・・とは、後日、今回の騒動の顛末を知った、組織総責任者である水沢の発言があったが、影山はその意見に素直に従うことはなかった。
結局、文献把握に丸10日、それによって得られた情報をもとに『儀式』の準備に4日。実に密度のある二週間を経て、影山は召喚の準備を完了させた。
場所は影山が出勤している組織所属の会社の開発部が所有する特殊実験室の一つを使用し、手続きも正式に実験という名目で申請し、各種機材の使用許可を得ての作業となった。さすがに、影山の館では足りない機材・資材が多かったのである。
そして、組織の施設を使うのであれば、より本格的に行おうと、記録ビデオから各種計測機器に至るまで、思いつきで発足した行為の実施とは思えない様相となり始めていた。
その物々しさに加え、影山が「また」何か大がかりなことを始めたと言う話は、口止めも無かった事から、あっと言う間に広まり、ある程度仕事に余裕がある者の大半が見物に訪れていた。
だが、今回の「実験」の予備知識を全く聞き知って者達は、興味本位で見学に訪れた直後、揃って硬直し、自分達が期待する実験内容とは根本的に異なる事が行われる事を知る羽目となる。
その実験室は本来の姿を失っていた。敷き詰められた木床面に、古式インクにて描かれた直径3メートルの魔法陣が部屋の中心部に描かれており、その周囲には幾つもの蝋燭が立てられていた。
一見すれば準備はほとんど完了したと言って良い状況の中で、影山は資料と床の魔法陣を交互に見つめていた。
「・・・・・・うん、魔法陣の文字にも問題ないみたいだな」
既に10回を超える確認を済ませ影山は、見本となった写真のコピーを懐にしまった。
「異世界への門を開ける・・・・・って、こういう事ですの?」
ほとんど形式どおりの状況となっている現状をローラが問うた。
「まぁ、古式に頼りすぎているのも確かだけど・・・・・」
影山にはローラの言いたいことが理解できた。彼の本来の目的は、科学的に召喚術が使えるかの検証であった。それが単に教本通りのやり方にそっていては意味がないのである。
だが、彼なりに資料を調べて解った(と思っている)事は、魔法陣を用いた召喚術とは、星の位置や土地の位置の関係で生じる微弱で特殊な『力』を、紋様の形状パターンによって、ある種の力場を生じさせる『魔法陣』と、力を持つ言葉である『言霊』を用いる事によって一時的に増幅させ、空間に歪みを生じさせる物であった。
これにより、魔法陣内(瞬間的に生じた力場内)は空間の歪みで異世界に繋がり、こちらの世界の僅かな一空間が、一時的に異なる秩序の支配する異世界へと置換され、異世界の生物を垣間見る事が出来る。
古来、召喚した存在が魔法陣から出られないとされているのは、その魔法陣内の世界(異世界)と自分達の世界が異なる秩序によって形成されているためであり、異世界の生物の生きていける空間ではないからである。
簡単に例えるなら、魔法陣内の世界とその世界の生物は、金魚鉢の中の魚みたいな物で、向こうの世界から見れば、生命維持のカプセルに入った状態で海中や宇宙空間にいると思えば良いだろう。
ただこれだけなら、異空間を覗くだけの行為であり、空間に歪みを生じさせるだけであれば、現代科学でもあながち不可能ではないとも思われる。
だが、過去の文献には召喚した生物(悪魔)と契約を結び、取引を行い、場合によっては使役したと言う記録さえ存在した。
それは、異世界の生物がこちらの世界で生息していた事を現している。
繋がった世界との『秩序』が、こちらのそれとが似通っているため・・・・と言う仮説もあるが、影山は文献より得られた資料から『生贄』が、その理由になると解釈していた。
召喚した悪魔との取引には、必ず生贄が必要となっているのは周知の事実であった。これは、悪魔に『生贄』と言う仮の肉体を提供し、こちらの世界に順応して貰う・・・・いわば向こうの生物にとっての宇宙服の様な役割を担っていた・・・・と言う発想である。
故に、下級な存在は動物などで事足り、多くの悪魔の類が動物類に似ている点を持っているのも、この生贄の身体を利用して身体を形成している為であり、逆に高級な存在ほど多くの生贄が必要なのは、その容量に応じたそれが必要であったからに他ならなかった。
「・・・・・・・・・・と、解釈すれば、なかなかスジが通っていると思うんだが・・・・・・」
影山は、取りあえず結論づけた持論と言うより仮説・・・否、設定に、今ひとつ自信が持てないでいた。
そもそも、世間に説得力を自然と持たせられる博士号を何も持たない男の独学発表では、学会にや専門部位に門前払いされ、ただのSF物語扱いされるのは当然であり、それを当人も自覚しているのである。
「仮説を聞く限りでは、それらしくは聞こえますわね」
若干、疲労の色を顔に覗かせつつ、ローラが言った。
今回の資料となった書物の翻訳に携わった者としての義務感で、ここまでついてきたのである。
ちなみに他のメイド衆は、メイド生活初まって以来のハードワークに倒れ、現在は館のベットの中で爆眠中だったりする。
実際、この一週間ほとんど不眠不休を貫いた影山も疲労はピークに至っているずだったが、女性の胃袋の「別腹」論と同様の論理が彼にも働いているのか、その表情はいまだに活気を失ってはいなかった。
「・・・・・・準備完了。もうすぐ予定時間です」
その言葉に、ある種の覚悟も含めさせ、ローラが言った。
「よし」
影山も緊張した面持ちで頷くと、用意してあった古くさいマントを羽織り、同じく用意していた呪文詠唱メモを手にして魔法陣手前の所定位置に立った。
召喚の儀式には星々の位置と場所、更には時間帯も関与する。それらの情報をまとめて検討した結果、この実験室で召喚を行う場合に適していると予想される時間帯が、『今』なのである。
ローラが実験室の扉を閉め『お静かに』のプラカードをギャラリーに向ける。星は常に移動する。正確には地球の自転・公転によるものだが、その位置の変化が力場の構成を微妙に変化させるため、召喚に適した時間は極めて短い。ローラは信憑性はともかく、限られた時間を有効に使用するため、室内時計の針を注目し、ある時間に達した瞬間、影山に視線で合図を送った。
静寂の中、合図を受けた影山は、魔法陣の中心に立って、ゆっくりと呪文詠唱を始めた。
呪文は意味不明の言葉で構成されていた。解読した本が異国版であった事から、その『言霊』の文章も、その国の古語で構成されている。
影山は『言霊』の性質を考慮した上で、訳文を唱えても意味がないだろうと言う判断に至り、原文そのままに詠唱していたのである。
無論、彼には自分の口にしている言葉がどの様な意味を持っているのか理解していない。ただひたすら発音と読みを間違えないように何十回と『読む』事のみを練習し、聞くだけならば現地民さながらの発音をマスターしていたのである。
ただ、手にしたメモが、全てカタカナで構成された読みでなければ、もう少し格好がついたかもしれなかったのだが、当人はまるで気にはしていない。
魔法という異質きわまりない分野の実験に関しては誰もが半信半疑であり、実際に実験が進行しているようには見えなかったが、興味本位で来た以上、その結果くらい見届けようと、大勢が残ってはいたが、誰も成功を想像してはいなかった。
古来より無数に存在する学問のうち、現代知識から見れば馬鹿馬鹿しい話である天動説を始め、多くのそれは、当時は真面目に検討されていたものでった。
その時代の人々は、物質文明の発達していなかったが故に、神秘性を秘めた分野の研究を続け、現代では奇跡とか偶然とか錯覚とさえ言われる現象に対する研究を続け、何気ない現象をも探求した。
今は見向きもされない錬金術なども含め、その数は膨大な物であり、多くが無駄な努力と夢物語に終わっていたが、周囲の環境的偶然によって生じた現象を、それこそ偶然に発見し、記録した者も存在した。
ただ、その『偶然』が生じる環境的な条件があまりに低確率なため、再度の観測機会を得る前に研究者の命が尽き、十分な検証を得られず、実験結果だとすれば一度きりの偶然的成功・信憑性の薄い成功結果とされ、目撃記録であれば単純に錯覚と評され、相手にされないケースとなっているのが殆どであった。
影山が今回、曽我部経由で手にした資料は、そうした『偶然』を記録した本物の一つであったのだ。
そうした希少な資料の入手から始まり、当時では判り得ない星の正確な配置やその他の環境的情報も入手できる情報世界の現代文明のおかげで、滅多に訪れない召喚を行うために適した『場所と時間』と言う環境的状況が幾つか割り出された。
更には、現代ではそうした夢物語的な扱いをされ見向きもされない様な行為を本気で実行する影山という異端者の存在が、自然に生じるには数百年を待たなければならないだろう現象を現実のものとする。
そう、全ては幾つもの偶然と、一個人の酔狂が重なりあった結果であった。
「!?」
実験室内に僅かな動揺が走った。
影山の呪文詠唱に呼応するように、床に書き込まれた魔法陣の線と文字が光り始めたのである。
光はまっすぐに天井に向かって伸び、天井面に光の文字を刻み、溢れた光は円柱となって影山を包み込む。
詠唱者の影山も内心感動・・・と言うより動揺しながら、所定の手続に従って魔法陣の外に出て呪文詠唱を続ける。
常識を無視した現象は更に続いた。
魔法陣から発せられた光の中から、ホタルのような小さな光の球が発生して魔法陣空間の中央に集まりだし、それに伴い発光量は徐々に増して行き、ある一定光量に達した瞬間、それは一際の輝きを放ったかと思うと、魔法陣の光も道連れにして消え去った。
ストロボの光のような現象が過ぎ去り、静寂が訪れた。だが、その現象が残したのは光の幻想だけではなかった。
消え去った光の跡に、『闇』が存在した。
最初それは、眩い発光現象が眼球に残した残像だと誰もが思った。だが、目が回復していくにつれて、その判断が間違いである事を認識する。
それは魔法陣の真上に浮遊していた。形容しがたいそれを無理に表現するとすれば、黒い煙のような物が球状を維持したまま、一定位置に滞空している・・・・・とでも言うのであろうか、ともかくも非科学的で不可思議な現象が今現実に起こっていたのである。
「・・・・さて・・・これ、どうしよう?」
なにげに呟かれた影山の言葉を耳にした者は、揃って彼を見やった。
「まだ・・・・考えていらっしゃらなかったんですか?」
ローラもまたその一員という枠から抜けてはいなかった。この計画の当初より懸念していた問題がいまだに解消されていなかった事実に直面し、彼女は影山の場当たり主義に呆れると同時に、多忙にかまけてその点を問う事を失念していた自分をも恥じた。
「いや・・・実際、ここまで成功するなんて思っても見なかったから・・・・・せいぜい、空間変調でも観測できれば良い方かとは思ってたんだけど」
言って頭を掻く影山。本気で取りかかってるかのように見えて、当の本人がその成功を信じていなかったのである。
「記録はできてるよね」
「はい。計測は続けられていますわ」
自分でも一応にと、魔除けのつもりで被銀弾・・・つまりは銀の弾丸を装填した拳銃を隠し持ってはいたローラではあったが、これに関して言えば彼女も影山と同じ心境で、効果の信憑性自体は信じていなかった。ただ、心情的に得体の知れない存在に対する不安を緩和する物がどうしても必要だったのである。
「伝承や記録が正しければ、アレは召喚物体になるはずだけど、魔法陣の構成を崩せば状態を維持できなくなって消滅するはずだから・・・・・消えてもらうか」
流石に未知の物体に触れてみようという勇気を持てなかった影山は、どうせ出てくるなら知的生物であってほしかったなどと一方的な要望をいだきつつも、自分で呼び込んだ物体の早々なる消去を目論んだ。
そして、彼が摺り足で魔法陣の一部を消した時、ソレは反応を見せた。
まるで穴の空いた部分から空気が抜けるような動きでその「煙」あるいは「ガス状物体」は、魔法陣上から抜け出し、最も手近にいた影山に接触し、そのまますり抜けた。
「!?」
ホラー映画でよく見られるゴーストの人体通過現象を実像で見た一同は、揃って息を呑み、彼との距離を一斉に開く一方で、未知なる物体と接触した影山の生死に興味を抱いた。
影山もホラー映画でよく見られる反応、物体が通過した部分と物体を交互に見やる行為を行っていたが、見る限り命に影響は及んでいないように見受けられた。むしろ変異があったのは、ガス状物体の方であった。
『ウケ、ウケケケケケケケ』
「??」
「喋る?」
「いったい、どこに声帯なんて物が?」
間違いなくガス状物体から放たれた『声』に、その場にいた一同が驚きを隠せなかった。
「言葉、分かるのか?」
到底知的生物とは思えないソレに、語りかける影山。先の発声そのものが言葉の理解とはならないのだが、その疑問の解決のために、彼は最も単純な方法、つまりこちらから問いかけを行ったのである。
『ケ、ケケ・・・・コトバ・・知らない。だが、こ、こここ、この意思伝達方法、知る。ワカル』
「無理に声にしてくれているのか?・・・・・で、お前は何だ?」
『何、なに、ナニ・・・・知らない。ナニか知らない。でも、する事は知る』
「?」
影山がガス状物体の返答の解釈に悩んだ瞬間だった。
ソレは帯状に形状を変化させたかと思うと、浮遊する蛇を思わせる動きで鎌首をもたげて飛翔すると、事の成り行きを見守るしかなかった傍観者の一人、女性技術員 片岡 佳織にとりついた。
「いやぁっ、な、何よ!?」
まさか自分に矛先が向くとは思っても見なかった佳織は、悲鳴を上げてソレを剥がそうとした。
だが、ガス状の物体であるそれをどうする事も出来ず、彼女と、彼女を救おうとしたその他の面々の手は、虚しく空を泳ぐだけだった。
「一体何だってんだ?」
その、もっともな疑問は、すぐに形として現れる。
「あっ、あはっ!いやっっはっはははははははは!!な、何するのよ!!やははははは!」
突如として、彼等には聞き慣れて欲情を煽る声が沸き上がった。佳織である。
助けようとしていたはずの男達が、何を思ったのか、ガス状物体をそっちのけで彼女をくすぐり始めていたのである。
「ち、違う」
「俺達じゃ・・・・・」
「きゃぁははははははははは!な、何、言ってるのよ!あっっははははははは!!」
露骨にくすぐりを行いながらも、男達は弁明した。状況的にみて現行犯ではあるが、容易に理解できない現象は更に続いた。
いきなり同僚にくすぐられ、身悶えていた佳織が、自ら床に横たわり手足を広げ、その身を無防備に晒し、男達のくすぐりを受け始めたのである。
「ああっ〜っっはははははは!!ぎぃやぁっははっははははははははひははははは!!」
佳織は自ら受け入れたくすぐったさに、狂ったような笑い声を上げて身体を痙攣させた。
ピクピクと震える身体はその苦しさから逃れようとする意志が垣間見えたが、見えない拘束にその動きを制限されているのか、身を隠そうとまではしなかった。
そんな彼女の身体を、男達は遠慮なくくすぐり回す。それは特出した技巧もない、単純な責めではあったが、くすぐりに対して耐性もなく、弱い方に類していた佳織を狂わすには十分な刺激であった。
唐突に始まったこの行為。周囲の者達には喜ばしい物であるはずだったが、前ぶれもなかっただけに簡単に受け入れられるはずはなく、喜び勇んで加わる者もいるはずもなく、どう対処したらいいかも判断をしかねていた。
その中で、一番早くに事態に適応したのは、常識の壁を除外し先程の現象を受け入れ、おおよそ創作としか認識されていない説を信じることのできる影山だった。
「おい、お前等、ひょっとして体の自由がきかないのか?」
十分な距離を維持しつつ、影山は組織的なお楽しみに興じる面々に問いかけた。
「は、はい・・・・指が勝手に・・・」
「こ、こっちもです」
「わたっ、私もっっっひっっひっひははははは、こ、こんなに〜〜〜〜っいひひひひひ、こんなにくすぐったいのに、身体が動かせない〜〜〜」
切実、特に佳織の切実な証言を聞いて、影山は事態をおおよそ把握した。
「アレに操られているな・・・・」
「アレと申しますと、さっきの黒い煙みたいな・・・・アレでしょうか?」
一体、何を言い出すのかという様相のローラではあったが、先程までの現象を見ている事もあり、全てを否定して嘲笑できないのも事実であった。
「確証も証拠もないけどね」
自分で言って苦笑して、憶測だけであることを認めつつ彼はその仮説を続けた。
「見る限り、意識そのものを乗っ取った訳じゃなくて、接触により身体の主導権を奪ったってところかな?取り憑かれた彼女は身体の自由を、助けに近づいた連中は腕の自由を奪われてああなった・・・・・と」
「あの行為にはどう言った意味があるんでしょうか?」
怪訝そうな表情でローラが問う。彼等の組織的観念で言えば、喜ばしい状況とは言え、実施している相手が未確認生物とも言い難い存在では、その真意が分からない限り、緊張感の方が勝るのは当然であった。
「俺の仮説は二つ」
今だ繰り広げられているくすぐりを尻目に、影山は突き立てた2本の指をローラに向けた。
「どのような仮説ですか?」
「1:あの行為が、アレの挨拶に該当する行為である」
中指を折って語る影山。周囲でそれを耳にした一同で、これに同意する者は皆無であった。
「2:最初に俺と接触した事で、くすぐり行為を好む性質を持った」
そう続け、人差し指を折る。これも『まさか、そんなはずは・・・・』という部類の発言であるのだが、既に存在そのものが常識外の事態であるため、普段は遙かに常識人である面々も、全てを否定しきれない。と、言うより、その説を、信じてしまう心境にあった。
「それで何か対処案は?」
そうしたローラのもっともな問いかけに、影山はこれ以上ない困り果てた表情で応じた。
「映画でよく使われる台詞で恐縮だけど、それが分かっていればとうにそうしているよ。非科学的物体に対して非常識人物をぶつけるその発想は良いけど、今回ばっかりはね」
「いえ、そこまで思って言った訳では・・・・・」
冗談まじりの発言に、ローラは本気で答えた。
「しかぁ〜し、何もしないでは、事の当事者としての責任もあるので、多少は手出ししてみよう」
「あるんじゃないですか、対策」
影山が何やら企みを抱きながら歩みだしたのを見て、ローラは指摘した。
「対策なんていいもんじゃないよ。ほとんど消去法で片づけてみようって思っただけさ」
「消去法?」
その場の対策としてどう用いられるのか?見当のつかない発言に、ローラは眉をひそめた。消去法と言えば、要は不的確な物を除外していく手法だが、この場において、それほど多くの物があるとは思えなかったのである。ローラがそう思案している間に、影山は早々に行動に移った。
ボクッ!
鈍い打撃音と共に、佳織をくすぐっていた男性の一人が床に伏した。
「な・・・なっ?」
ローラのみならず、その場の誰もが影山の行為に呆然となった。彼は普段から隠し持っている武器の一つであるゴム製打撃武器で、的確に男の後頭部を殴りつけたのである。
「か、影山様・・・・一体何を?」
「うん、一つ分かった。アレは意識のある人間しか操れない様だ。きっと、脳信号に似た信号を接触部から与えて操ってるんだろうな」
ローラ他一同は、目をパチクリさせて影山と倒れた男を見やった。確かに倒れた男の腕には、あのガス状物体が今も絡んでいたが、その身体は全く動く気配を見せなかった。
「なら、操られた連中を全員失神させれば、取りあえずこの騒ぎは治まる!」
かくも極端に武断的な発言をする影山。だが、彼の指摘する騒ぎと、真の騒ぎとでは、その根底は異なっており、それを何とかしない限り、同様の事態はいくらでも発生する可能性は大きかったが、彼は目の前の事態沈静を優先した。
「では・・・・・いくぞぉうりゃぁ〜〜〜〜!」
どこかで配線が切れたのか、武器を手にして人格が変貌したのか、怪しげな奇声あげ、危険な目線で武器を振り上げた影山が、今もくすぐりを続けているもう一人の男に襲いかかった。
「うわぁぁっっっ!も、もっと穏便な方法は無いんですかぁ〜〜〜」
くすぐり行為はそのままに、佳織を中心として円を描く様にして辛うじて影山の一撃をかわした男が悲鳴を上げる。
空振りした獲物は男と佳織の間を通過し、その時偶然、佳織の身体と男の腕の自由を奪い繋がっていたガス状物体を物理的切断した。
「?」
もとがガス状であるため、その手応えは全くなかったが、2つに分離した小さい側、即ち男の腕に絡みついていた方のソレは、水面に垂らしたインクのように拡散し、消滅した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
男と影山は、互いにその状況を凝視しつつ、硬直していた。やがて、二人の視線が合わさると、影山は獲物を振り上げ、男は反射的に両腕を振り上げ、頭部を庇った。
「あ、ほら、動きます。影山さん!腕、動きます。自由になりましたっ!!」
自由を取り戻した腕を必死に見せつけ、攻撃中止を要望する男。影山はその様子を暫く見つめ、その自由が仮初めでないと判断すると、振り上げた獲物を納めた。
「ち・・・・残念」
「ざ、残念ってなんです?残念って・・・・」
「まぁ、それはさておき、もう一つ分かったな」
命に関わる可能性のあった行為に対する抗議を無視した影山は、佳織にまとわりつくガス状物体をピシリと指さした。
「コレは、接触により、人間の身体を操れるようだが、今みたいに容易に分断もできる。そして分断された方は、即状態を維持できなくなって消滅する。即ち、こまめに分断させ続ければ、やがては・・・・・」
成る程・・・・と、頷く一同。
「そんなわけで、皆の者、行けい!」
子供向け番組並にオーバーリアクションで指示を出す影山であったが、流石にそれに従い、行動する者は一人もいなかった。
「・・・・・・・・何故?」
場が続かなくなった影山が、一同を見回し寂しげに問うた。
「な、何故って・・・・・なぁ」
「ああ、迂闊に近づいたら、さっきの連中の二の舞となって、影山さんにぶん殴られるだけだしなぁ」
「操られる危険があるって分かって近づくのも・・・・・」
そうこうして、一同が対応を躊躇している間に、身に危険を感じたのか、ガス状物体が行動に入った。
今までまとわりついていた佳織から離脱すると、次の相手を求めて飛翔したのだ。
「あっ!?」
ターゲットになったのはローラであった。黒い物体は、彼女に向かってまっしぐらに迫る。彼女は、反射的に拳銃を引き抜いたが、使用を躊躇した。何人もの人のいる密室という環境も要因の一つであったが、殺傷力はあっても「小さな銃弾」では、この相手には効果が低いと言う事実があったのである。
それを知り得ていた為に彼女は攻撃を躊躇い、その結果、回避が遅れた。自分との間合いが1メートルに迫り、ある種の覚悟を決めたその時、
「一刀両断!!」
今度は収納式警棒を引き抜いた影山が、躊躇無くガス状物体に攻撃を仕掛けた。
見た目にも手応えが無く、空振りにも見えるリアクションであったが、振り降ろされた彼の一閃は、人魂状態になっていたソレを捉えていた。
更に
「Vの字斬りぃ!」
などと叫んで下段から上段へと振り上げた警棒が再び、ソレの一部を掠める。
『アィィィィィ』
三つに分断されたソレは、一番大きな部分を残して霧散し、悲鳴と思わしき奇声をあげて失速した。
「うりゃっっしゃぁ〜〜〜〜!」
ここぞとばかりに更なる攻撃を仕掛ける影山の姿に、あるいは自身の消滅の危機感を察したのか、ガス状物体はローラ襲撃を断念し、慌てた様子で影山との間合いを広げた。
その急な方向転換が新たな騒動となった。もともと見物人が多かった実験室である。ほんの少し移動しただけで、他の者との距離が縮まる。接触すれば自由が奪われる以前に、得体の知れない物の接近・接触を快く思う者は少ない。
ソレに近づかれた者達の間でたちまちパニックが生じ、場が混乱した。特に必要以上の恐怖に駆られた者が、逃げ場を求めて出入口のドアを開けた時、影山の表情が強張った。
「馬鹿!ドアを開けるな!!」
言っても手遅れであった。新たな空間を見いだしたガス状物体は、混乱する人の間をすり抜け、実験室の外へ飛び出した。
一応、万一の対策として壁面全体に古文書を参考にした防壁紋様を施していたのではあるが、いったん扉が開放されれば、その紋様は欠損したと同様で、完全な紋様形状によって発揮されていた効果は失われてしまう。
「追え!」
言った当人の影山が、二の足を踏む連中を押しのけ後を追う。
ガス状物体は、影山を天敵と認識したのか、とにかくその場を離れようとして、窓ガラスにぶつかり弾かれ、慌てて方向転換して曲がり角に消えた。
「ええいっ、くそっ!」
相手を一旦視界から逃してしまった影山は、忌々しげに唸ると、壁面に備え付けられていた非常ボタンを押し、更に隠しボタンを決められた手順で押し込んだ。
ビルのメイン管理コンピューターは、その操作によって生じた信号を確認すると、直ちにプログラムされたモードに切り替わり、非常閉鎖システムを作動させた。これは本来、機密データー盗難やテロ的活動に際して使用されるシステムで、速やかなる各ブロックの閉鎖を行い、内部に対する監視網を強化するシステムであった。
一応、訓練などで基本的な手順は把握していた各職員ではあったが、いざ抜き打ち的に行われると、的確に行動できる者は皆無であった。
したがって、閉鎖処置などは完全にコンピューターの管理で行われ、騒動の隙を可能な限り減らすようにされていた。
窓は次々に極薄の強化シールドが降ろされ、鍵がロックされ、技術部・研究部施設では早々と隔壁が降ろされ、隔離という名の安全確保が行われた。
「やりすぎですわ」
自分達のいる区画の窓にも半透明の強化シールドが降り、その光量を若干下げた時、ローラは影山が故意に騒ぎを拡大しているように思えて、思わず声を張り上げた。
「事の発端を起こした当事者としては言いにくいが、アレを野放しにしておくわけには行かない。時間の経過でどう変化するかも分からないからな」
「ですけど、物理的な消滅もできる様子でしたし、それほどの危険とは・・・・」
「アレはこの世界の物体じゃないんだ。こっちの常識が通用するなんて考えるな」
いつになく厳しい眼差しで影山は言った。
「ほっといて死ぬ可能性もあるにはあるが・・・・・・質の悪い存在に化ける事だってありえる。こうした時は悪い可能性を想定して、それを防止するようにすべきだよ」
その辺りは空想科学映画の見過ぎから来る発言だろうと思うローラではあったが、不思議に全否定する事もできなかった。
−こちらの常識が通用すると思うな。−
影山が発言したためか、その一言が妙に気にかかるローラであった。
「こちら特殊実験棟の影山。管理センター聞こえるか?」
影山は非常ボタンのスペースに備え付けられていた小型の無線機を一つ取り出して装着すると、こうした非常事態の際に、全ての施設状況を管理する事になっているセクションを呼び出した。
『ああ、影山さんですか?受信状態は良好です。先程の警報ですが・・・』
「あれは俺だ」
まだ事態を確認していない旨を伝えようとする係員より先に、影山は伝える。
「先に聞くが、そっちの管理モニターには、異常表示は何一つ表示されていないか?」
『はい何も。数種のセンサーがシステムと閉鎖区域内の自己診断を行って再調査しましたが、異常は感知されていません。何があったんですか?』
「ちょっとした生き物・・・・らしきモノが逃げ出したんだ。逃亡防止処置で大げさではあったがシステムを起動させてもらった。悪いが一件が片づくまで、この状態を維持させてもらう」
『らしきモノ?』
「説明しにくいから、実験生物と思ってくれ。必要なら事態解決後に始末書や報告書は提出する」
『了解しました。先に確認しますが、人命には問題が無いんですね?』
職務上、その事実だけは確認したいところであった。
「ない・・・・はずだ。現時点で死者もいない」
怪我人はいると言う事実をさり気なく伏せておく影山。
「ただ、今後どうなるかが分からないので、モニターに異変があったら何でもいい、連絡してくれ。あと、通風口関係もバイオハザードモードの閉鎖区画内浄化循環式にして、フィルターの接触センサーも最高にしてモニターしておいてくれ」
これは相手がガス状物体である事を考慮しての事だった。
『・・・・・・・・本当に大丈夫なんですか?』
影山の指示から、かなり危険な状況を連想してしまった係員が、心配そうに問いかけてきた。
「大丈夫だ。事態が手に余るくらいなら、閉鎖せずに、とっくに逃げ出している。俺が残っているって事は、収拾が可能だって事だよ」
『成る程・・・』
ある意味、問題発言にも取られそうな内容に、係員は納得した声をあげた。
「とにかくだ、こちらで認識できない情報もあるから、そっちは妙な変化があったら、内容に関わらずこっちに連絡してくれ。
『分かりました』
管理センターとの通話を切った影山は、向き直って実験見物客一同を見回し、軽く息を吐いて、言った。
「そんな訳で、みんなにも手伝ってもらう」
「とんだとばっちりだ・・・・・」
先程、危うく影山に殴り倒されそうになった男が言った。
「野次馬精神が仇になったと思って諦めろ」
男の非難を、影山は一言で切り捨てる。
「真面目に本来の仕事をしていれば、パニくった連中にアレが開放される事もなかっただろうしな。だがしかし、まだ我々には時間を遡る技術がない以上、『これから』を考える方が妥当だと思うが・・・・違うか?」
無論反論はない。アレを逃がしたのも影山であれば非難の嵐だっただろうが、幸いにして今回は違う。
「それで、どう対処なさるおつもりですか?」
ローラも無意味な論議で時を費やすのは得策でないと判断し、早々に行動にでる方向に話を進めた。
「まずは閉鎖区画内の人間を一箇所に集めて、事情を説明する。そう多くは無いだろうが、事態も分からずに騒がれたら、こっちの行動に差し支えがでるからな。その上で、全員でアレを捕獲する」
「捕獲?処分ではなくて?具体的には?」
「それより外に逃げ出している可能性もあるんじゃないんですか?」
一同の中からそんな質問が投げかけられた。
「閉鎖が早かったから、外には逃げ出してはいないはずだ」
「どうして分かるんですか?」
「さっき、実験室から飛び出した時、アレは強化ガラスでもない紋様も描かれていない只のガラスに弾かれた。それに簡単に裂けた事も考えると、アレはガス状の特異な生物であると言うだけで、俺達同様、無機物を無条件で通過できない・・・・と、考えられる」
パニックの中でそんな事も覚えていなかった一同は、微かな記憶を思い起こして僅かに納得した。
「そして、アレは分断されると、本体ではない方・・・・になるのか、そっちは存在を維持できずに消滅する特性を見せていた。そこで、捕獲方法だが、可能な限りアレを削って小さくして行き、最終的にはこのサンプル保管用の瓶に閉じこめる。あとは2度と開放しないようにして、お終い・・・・だ。何か質問は?」
作戦としてかなり大雑把ではあるが、異論者などは現れなかった。相手が根本的に未知な存在であるため、専門知識を所有したものがおらず、明確な対処法を思いつけなかったのである。
つまるところ、この案ですら正しいのか上手く行くのかも分からないのが現状なのである。が、これと言った代案も無かったことから、一同は早々に行動に入った。
まずは事態を把握していない人間を集めるため、2人1組(お互いの距離も広げておく)で閉鎖区画を巡回する。
もともと特殊実験棟なる施設が頻繁に使用されている事はなく、巡回で確認できた者は、倉庫に備品を搬入しに来ていた2人の資材課職員だけだった。
その2人に事情を簡単に説明し終えると有無を言わさず協力を強要し、一同はいよいよ謎のガス状物体捕獲作戦を開始するのであった。
未知の生物を捜索する場合、SF映画であれば誰かが即席で探査機の類などを造ったりもするものだが、まだ正体もはっきりしないガス状物体を感知する機械を作れる人材がいるはずもなく、結局のところ、やることは至って単純であった。
複数人一組のチームに分かれて、各部屋を片っ端から調べて行き、空き部屋と確認された部屋は扉の隙間をテープ類で閉鎖し、入れ違いに侵入されるのを防止していく。ただこれだけである。
基本的には3名以上を義務づけていた影山であったが、当の本人はローラと2人編成になっていた。
人数的問題による結果・・・・とも言えたが、実際には、万が一捜査中に自分が取り憑かれた場合、影山の過剰的対処の標的になるのを恐れた面々が、同じチームになる事に難色を示した結果であった。
結局、強制も好まなかった彼は、そのまま義理的な立場のローラとのペアで行くことにしたのである。
2人はそれぞれの手に、急遽用意した獲物(ショットガン/クロスゴム弾仕様)を手に、担当区画の捜索を続けていた。
「こちらK班。各員報告」
『1班異常なし』
『2班異常なし』
『3班異常なし』
無線機による影山の呼びかけに、各員からの返信が素早く行われる。
警備部関係者が見れば、規律が維持されていると評するだろうが、その実態は、定期連絡の返信がない場合、異常事態発生と見なし『総員で相応の対処を行うこと』と、言う指示が成されていたため、誤認による袋叩きを恐れての反応であった。
そうした背景があっても、各員の連携がとれれば良しとした影山は、分担箇所を隅々まで見て回った。
相手が未知の生物であるため、不慣れな捜索に対しても細心の注意と緊張が伴っていたが、「異常なし」がしばらく続くと、さすがに影山の緊張も薄れ、日常的深夜ビル巡回の様相を呈していく。
事が起きたのは、そうした瞬間による偶然か、狙って生じた必然的な出来事だったのか、ともかくソレは、影山班の分担区画に出没することとなる。
影山とローラの十数ヶ所目の捜索対象となった部屋は、クリーンルーム仕様となった薬品実験室だった。
中はエアシャワー室によって埃を除去した後に入室が許される類の部屋で、精密機器類をモンター・コントロールする操作室と実験室の二部屋に区分されていた。
主に危険な調合や完璧な異物混入をさける実験に用いられ、基本的には操作室にてロボットアームなどを使って作業を行う場所であったが、現在のところは使用されておらず、備品のみが列んでいる状態となっていた。
「んじゃ、ローラは実験室。こっちは操作室を・・・」
「はい」
影山とローラは、既に数度行われパターン化した行動を行った。何の音沙汰もない現状が、ここでも繰り返されると決めつけるかのような行為であり、堅実を旨としているローラにもその傾向があった。
複数チームでの行動が原則であったはずが、この時、彼等はそれを遵守しなかった。確かに実験室内を複数で調査はしていた。だが、操作室と実験室に分かれた時点で、それは別行動と見てもよい状況であった。
油断の罰・・・とするならば、本来なら事の発端者である影山に降りかかる事が公正と言えたが、不条理にも災難はローラに降りかかった。
操作室から実験室に入り、その境界となる機密扉が閉じた瞬間、彼女は不意に身体の動きが緩慢になったのを感じた。足の動きがはっきりと遅くなり、自身の体重移動について行けなくなってバランスが崩れ、転倒した。
「!」
起き上がろうにも足が上手く動かず、辛うじて腕で仰向けになったところで彼女は両脚にあのガス状物体が付着しているのを目の当たりにして、事態を把握した。
これはあくまでも不幸な偶然であったのだが、ソレは実験室の操作室に潜んでいた。
本来は唯一の入口であるエアシャワーに入った時点で、除塵用の強い風が吹きつけられフィルター付きの換気扇によって吸い込むという諸手順が成されるはずだったが、未使用であったために電源が切られており機能しておらず、完全機密ではなかった機器の隙間を通って操作室に潜伏していたのである。
そこへ影山達がやって来て、何も知らずに二手に分かれたのを狙って、ソレはローラに接触し、共に密室の実験室へと侵入した。
あとは、その本能に従って活動を開始したソレは、彼女の足から徐々に全身へと広がりを見せた。
「かっ、影やっ・・・・まぁぅ・・・・」
ローラが小さな悲鳴を上げるが、それは中途半端なところで終わってしまう。残った身体を薄く広く伸ばしたガス状物体が、瞬く間に彼女の全身に広がり、その声帯の自由も奪ってしまったのである。
だが例え助けを求める声が間に合っても、この実験室内にあっては、操作室までは届くことは無かった。
(離せ!!)
自力での対処を余儀なくされたローラが、必死に身体の主導権を奪い返そうと抗うが、そうした意志は全て空回りし、僅かに身体を動かす程度の効果しか得られなかった。
まるで麻痺毒でも使用され意識だけがはっきりしているか、よく聞かれる金縛りにあったかのように身動きが出来ずにいるローラの身体全体に行き渡ったガス状物体は、新たな行動に入った。
(はっ・・・はひっ・・・はぅっ・・・)
ローラは声帯を抑えられたため、僅かな呻き声しかあげなかったが、内心では喘ぎ声をもらしてしまっていた。
全身に広がっていたガス状物体から、思いも寄らぬ快感が送り込まれて来たのである。接触によって相手の自由を奪い、操る事が出来るのである。任意の感覚を送り込むのも可能なのであろうが、先程には見受けられなかった能力の行使にローラは驚きつつも、更に断続的に送り込まれてくるそれに、脳を刺激されプルプルを身を震わせて悶えた。
(はぁっ!?はぁぁぁ!!な、なに?こ、こんな、こんなぁ感覚!!)
本来なら精神の抵抗を徐々に崩していく様に迫る快感をいう名の波が、その抵抗をすり抜けて来るような・・・皮膚ではなく直接精神を刺激してくるかのような責めに、ローラは翻弄された。
堪えようにも堪えどころのない快感が身体の各所で生じ、全身が性感帯になった所に羽で優しくくすぐられているかの様な刺激を受け、たちまち彼女の意識は快楽に呑まれていく。
(はぁっ!はあぁっ!あはぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜!)
信じられない勢いで性感が高まりを見せ、ローラは堪らないくすぐったさを伴った快感に、我を忘れて酔いしれた。一時間かけて来る感覚がこの一瞬でやって来たかのようで、彼女は声を放てないまま口をコイのようにぱくぱくをして、目には歓喜の涙を浮かべていた。
凄まじい勢いの性感の上昇ではあったが、その勢いのまま終末へとは行かなかった。
刺激は尚も続いている。だが、この勢いであれば、既に到達しているはずの絶頂に辿り着かなかったのである。
それはまるで、絶頂に到達する波だけが防波堤で遮られているかの様であり、ローラは性的な焦燥感に襲われる事となる。
それも只の焦燥感ではない。あり得ない快楽にあり得ない性感の高まり、その勢いに流されあと一息の所で、強制的にソレを遮られる。にもかかわらず、全身に生じる快感は衰えを見せていないのである。
(はぁぁぁぁ!!!!!あ、あと、あと、少しなのにぃぃぃ〜〜〜〜!!!)
焦らし責めにしても凶悪とも言える、それに、ローラは成す術なく狂い続けるしかなかった。
実際この状態が続けば、あと数分とかけず彼女の精神は破綻していたかもしれない。だが、その時、彼女が完全に快楽の彼方に吹き飛ばしていた存在が助けに訪れた。
「ローラ!」
影山である。操作室のチェック中、ガラス越しに何気なく実験室内を見て彼女のが倒れているのに気づいて事態を察知し、駆け込んできたのである。
(か、影山・・・さ・・・・ま)
遠くで聞こえたような気がした声に、ローラの意識が微かに反応するが、それはすぐに濁流のように押し寄せる快楽にもみ消される。
「なかなか粋な悪戯だが、この部屋だったのが運の尽きだ!」
ガス状物体のみならずローラにも関心を得られなかった状況となり、少し浮いた影山だったが、彼はそうした状況を意に介さず、室内に備え付けられていたシャワーヘッドを手にして、倒れたままの彼女に向け、蛇口の栓を思いっきり捻った。
本来は、室内で薬剤作業していた者が、不測の事態で薬品を浴びた際に、それを洗い流すための装備であり、用途故にその水圧は高めに設定されている。
彼女の顔から足、足から顔と何度も往復してシャワーを浴びせかける影山。一見、ふざけているかのようにも見えるこの行為も、ガス状物体には致命的な行為であった。
直接降りかかる水の矢、服の布地を浸透して流れる水、どちらもガス状物体を貫通し、僅かずつではあるがその身体(?)を削り取っていた。
物体に対してまるで耐久力のない身体の構成物質故に、こうした人畜無害な攻撃もソレには致命的となってしまったのである。
『ヒィィィィ・・・』
自身の存続の危機に、悲鳴らしき声をあげてガス状物体はローラから離脱し、天井近くで滞空した。
「今だ!管理センター!第15特殊実験室内の非常換気口全力運転だ!急げ!!」
『は、はいっ!!』
あまりにも急な指示ではあったが、連絡を受けた当事者は迅速に反応した。直ちに天井全面に設置されていた、有毒ガス発生時に使用される非常換気扇が緊急稼働して、閉鎖していた天版を開いて勢いよく空気を吸い込みだす。無論、エアロックではないので、吸い込む勢いに会わせて床面から新たな空気が送り込まれて換気の効率を維持し続ける。
そうした激しい空気の流れに対する抵抗手段をガス状物体が持っているはずもなく、ソレは換気扇に吸い込まれ、何重にも設置されていた有毒ガス用の細かいフィルターを強制的に通過させられ、散り散りとなって消滅した。
本来は操作室でも実施できる処置であったが、余計な脱出路を作りたくなかったが故の影山の判断は正しい物だった。
「OK、換気停止。使用したダクトのセンサーレンジを最大にして、僅かな影や動態反応が無いかを確認してくれ」
『了解。少し待って下さい・・・・・・・・・・・・・全換気セクションに感なし。完全に正常・無菌です』
影山の要望に、管理センターからの望ましい返答が帰ってくると、彼はほっと息をついて事態の終息を実感した。
自身の気まぐれが招き入れた、異界の物体は、その正体を突き止める事もなく、また最悪の事態へと進展する事なく、全ては初期段階で終わった。この辺りが映画とは異なる展開だなと思う影山だった。
「了解、処置完了。非常時体勢解除。全セクションを解放してくれ。後でそっちに説明に行く」
『了解』
管理センターとの通信が終わり、必要の無くなった通信機を切った影山は、ずぶ濡れになったローラに視線を移し、その有様に苦笑した。
「すまない・・・・咄嗟だったもんで・・・・その服のクリーニング代・・・いや、服そのものを弁償するよ・・・」
「・・・・・」
ローラは返事をしなかった。それどころか、表情は虚ろで目は焦点があっておらず、魂が抜けているかの様相で横たわったままだった。
「ローラ?ローラ君?ロ〜ラちゃ〜ん〜ん?」
影山は彼女の目の前で手を左右に振ったりして反応を伺ったが、それでも彼女は反応を見せず、僅かに上下する腹部が、生存を証明してみせるのみとなっていた。
医学に関する知識などTVドラマで見る程度しかない彼は対処に困った。そもそも謎の物体との接触が行われていたのである。最悪の場合は現代医学も役に立たないケースが生じてもおかしくはない。あるいは意識が朦朧としているだけかもしれなかったが、外見の様子からだけでは、そうした心身の状況判断は出来なかった。
影山は、事の元凶を処分できた安心感から、悪い事態を想定する注意力が欠如しまい、緊張感から脱した反動か、茶目っ気をだしてしまった。
彼は放り投げて床に転がっていたシャワーヘッドを手にすると、それを元の場所に設置するのではなく、温めの湯を噴出させ、それを事もあろうか横たわっていたローラの股間に差し入れた。
当人としてはたわいない悪戯心でしかなかった。この刺激でローラが反射的な拳の一撃でも繰り出して正気に戻れば、その際のダメージも安い物だと思っていた。
だが彼女の実状は彼の想像の範囲には位置していなかった。
彼女は言うなれば、性感の表面張力状態にあったのである。あのガス状物体によって限界まで性感を高められたにも関わらず、終着点に至らない状態を維持されていたところを、影山によって救われはしたが、身体の火照りまでもが一緒に消滅したわけではなかった。
実際、高められていた感覚は、救助行動の一環として浴びせられていたシャワー水の直撃や肌を流れる水の流れすらも快感に感じさせていた。
そしてようやく、身体が主導権が自分の物として戻っても、僅かな刺激で官能が暴発する事が判っていた彼女は、身体から生じる欲求を強靱な理性で抑え、その火照りが治まるのを静かに待っていたのである。
幸い、これ以上の刺激さえ加えられなければ、濡れた衣服の程良い冷たさのおかげで、それはすぐに来るだろうと思っていた矢先、事情を全く知らない影山が股間にシャワーヘッドを押し込んだのである。快感を得るトップクラスのポイントに対するこの悪戯行為は、今のローラには予想外かつ痛恨の一撃と言えた。
「だめっっっはぁぁぁぁぁあああああ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
辛うじて近郊を保っていたはずの精神のバランスは、その何気ない行為で一気にバランスを崩した。拒絶の言葉も直後に溢れた快楽の絶叫に呑み込まれ、ローラは一瞬で絶頂を迎えてしまい、身体を弓なりに反らして小刻みに痙攣させる。
「・・・・・!」
まさかこの程度でいきなりイクとは思っていなかっただけに、これには影山も面食らった。だがしかし、これによって生じた事態はこれだけでは済まなかった。
影山は忘れていた。ローラはこれまで秘書な役職として、そして臨時の研究協力者として有能な働きを見せてはいても、その実態は、組織の幹部である曽我部の専属くすぐり奴隷なのである。
普段は最高のキャリアウーマンである彼女も、普段ではお目にかかれない姿を隠している。そのスイッチとも言えるのが、性感による絶頂だったのである。
一度絶頂を迎えると、曽我部の調教によって仕込まれた彼女は、くすぐり奴隷としての本性を現す。
それはまさしく変貌であり、気丈な女性が抑えていた性に対する解放にも思える。もちろん、誰にでも見せる姿ではない。本来なら曽我部のみが知る姿であり、それを自覚していたからこそ彼女も、必死に快楽の欲求を抑えて身体の火照りが冷めるのを待っていたのだが、その意志は呆気なく瓦解してしまった。
「はぁっあはぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜」
自分を制御できなくなったローラが艶やかな声を上げて身を起こし、影山にもたれかかった。その頬は上気し目は潤みを帯び、本当に当人かと疑いたくなるほどの艶やかさを見せつけていた。
「ちょっ、ローラ君?」
そうした事態をまるで予期していなかった影山は、驚いて数歩下がったところで実験室内の機材の角に足を引っかけ、バランスを崩すと、ローラはその勢いのまま彼を床に押し倒して、その上に馬乗りの姿勢となった。
「か、影山様ぁ〜〜〜!」
ローラは我を忘れた様に自分の下にいる影山に身体を擦りつけ、何度もキスを繰り出す。妙齢の少女が色っぽく自分の上で喘いでいる姿を目の当たりにすれば、大半の男は理性にゆるみが生じてしまうだろう。
しかし影山は、彼女のバックにいる存在を知っている。どういう経緯であれ、その専属奴隷に手を出してしまえば、どの様な事態になるか容易に想像できる立場であるが故に、沸き上がる欲望を必死に抑えた。
だが、既に理性を解放しているローラはお構いなしに影山に迫った。貪るようなキスの雨の後、彼女は一旦身を離すと、濡れた上着を乱暴に投げ捨て、妖しい眼差しで眼下の影山に視線を向ける。
一見してどちらが奴隷なのか判らない体勢であったが、その自覚のあるローラは、両手を自分の頭の後ろに回して、基本的な服従の姿勢をして見せた。
濡れた上着を脱いだとはいえ、下のブラウスも目一杯濡れている上に、透けた状態で肌に貼り付いて彼女の均整の取れた上半身のラインを露わにし、下半身の方も影山に跨っているため、タイトなスカートが捲れ上がって下着を完全に露出している。
そんな状態で服従のポーズを行ったローラは、それを促すかのように密着していた腰を小刻みに振って淫靡に誘う。
欲情しきった女性が、無防備に身体を晒して誘っている状況の前に、影山の意志が限界に達してしまったのも、無理からぬ事だろう。彼は目の前でくねる腰にゆっくりと手を伸ばし、意外に柔らかい両腰を軽く揉むように責めてみた。するとローラはビクリと極端に身を震わせて腰を激しく左右に振った。
「はぅっ!ひゃひはははははははっ!はぁぁん」
その過敏な反応は、責め属性の人間の血をたぎらせるには、十分な素材であった。
影山は笑い悶え、身をくねらせながらもそこから逃げようとしないローラの脇腹を激しく揉みくすぐり、時には指先でつついてみせる。
「はぁぁぁっっっはははははははは!いやっっはあはははあはははっはははあははははははは!!!も、もっと、もぉっっとぉ〜〜〜〜っっははははははあははははは!!」
ローラは激しく笑い悶えながらも、手は頭に位置したまま影山の上から逃れようとはしなかった。奴隷としての躾が行き届いているばかりでなく、くすぐったさの中に快楽を得ているからでもあった。
「いやっっっははははははっはははああはは!くるしっ!くるしぃぁっっはははははぁっっはははは!!でもでも、いぃぃぃ〜〜〜〜!」
一度スイッチの入った彼女は、十分に満足行くまで治まる事はなかった。激しいくすぐったさから逃れようとする反射反応と、その中に潜む快楽を貪りたい意識が鬩ぎ合い、ローラは淫らな腰振りダンスを続ける。
「す、凄い・・・・」
くすぐり行為による反応の良さと、女性の色っぽい乱れを目の当たりにしている影山も、当然の事ながら興奮を抑えきれず、股間をはらませてしまう。そうした突起を布越しに感じた彼女は、それに自分の股間を擦りつけて更なる快楽を貪ろうと動き出す。
「はひひひっひひいひひっっっ、影山様っ影山様ぁぁぁ!!もっとぉもっとぉっぉぉ〜〜ひゃぁっっはははははははは!!!」
事ここに至ると、影山の方が受け身になっている様に見える程、ローラの動きは激しくなる。貪欲にくすぐったさと快楽を求める彼女は、前者を影山に依存し、後者は自らの動きと行動で得ようと積極的に動き続ける。その結果、彼女の手が頭から彼のズボンへと移動したのも当然の成り行きであり、また、求められた側も、拒む意志や理性も失せていた。
結局ローラは暴発した欲望の赴くままに影山を求め、影山も流れに沿うようにそれに応じた。彼女の欲求の大きさをそのまま表現したような激しい行為はしばらく続き、数回に至る絶頂によって、ようやく沈静に至る。
その際、トラブル解決の連絡以降、姿を現さなかった影山を心配した他の面々の一部が見回りに来て、その激しい行為の現場に直面するというハプニングも生じたが、兎にも角も、異質な技術によって呼び込んだ異質な物体あるいは生物・・・・の引き起こした騒ぎは終息となった。
影山の騒動としては、結果的に人的・設備的な被害は皆無ではあったものの、この事態を馬鹿正直に報告書・始末書に記載して、当事者以外が素直に信じられるはずもなく、かなりの量の映像記録と現場に居合わせた者達の証言署名を必要とする手間を取らされる羽となる。
更に彼は、その日のうちに曽我部の元を訪問し、ローラとの行為の『目撃者』の噂が彼女に届く前に、事態の顛末を説明し謝罪したという。
『噂』が真実とかけ離れた内容となって曽我部の耳に届いた場合の危険を危惧しての事だったが、この時の彼が最も勤勉かつ一生懸命に見えた・・・・・と言う関係筋の噂が存在する。
この件に関しての記録は、数度にわたる確認調査と審問、そして訂正がなされ、ようやく処理されたが、それでも真偽を疑う事例として知れ渡り、清水の管理する内部事件ファイルの特殊項C−FILEに分類されたと言う・・・・・・・・
|